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第289話Thrill
「ハル…っそんなに早く行くなバカ!」
「ごめんね、急いでてつい」
こいつ、わざとだ。あのニヤニヤした顔を見れば一目瞭然だった。
そして俺はあるものの前でピタリと足を止める。
階段だ。
「ハル!待てって言ってんだろアホ!」
「そんな大きい声だしたら、みーんな勇也のことみちゃうけど、いいの?」
ハルに吐息を含んだ声でそう囁かれ、怯んでしまう。確かに、ただでさえこんな格好なのに大声を出していたら余計目立ってしまう。
「階段…お前、俺の後ろ歩けよ」
「え〜勇也さっきから歩くの遅いから嫌だなぁ」
「誰のせいで…おい、待てってば、はる…」
不安になってハルの服の裾を掴むと、一度咳払いをしてから俺の後ろへ回った。
「早く行きなよ」
「…分かってる」
スカートの裾を後ろ手に下へ引っ張って、中が見えないように慎重に一段ずつ登っていく。
「見んなよ」
「見てないよ、俺も押さえてあげよっか?」
「やめろ…っ」
近づいてきたハルからふいに香水の匂いがして、つい顔を逸らす。これ以上嗅いだらだめになる。ハルが欲しくて、仕方がなくなってしまう。
「勇也、そんな早く行ったら見えちゃうけど」
「どっちなんだよお前は」
「他の人には見せないでほしいな。見てもらいたいなら話は別だけど」
「アホか」
さっさと持ち場の教室へ戻ると、扉を開けた瞬間パシャリとシャッター音が鳴った。
「お〜双木やっと来たか。皆で待ってたよ」
オレンジ頭がカメラを構えたままヒラヒラと手を振り、その横では俺のことを凝視する朝比奈が、そして向かいに上杉と真田が座っている。
「うわ…お前らまで来たのかよ」
「二人がメイドしてるって聞いてさぁ、来ないわけないだろ。似合ってんじゃん二人とも!」
「そりゃどうも…」
「ああ、ジュリエットの時も思ったが確かに似合っているな。それで、小笠原はどこに?」
謙太の言葉に皆が一度固まって、メイド服を着たハルの方を指差す。
それを見た謙太は信じられないと言ったような顔をした。
「お前が…小笠原?」
「そうだよ。なぁに、惚れちゃった?」
「いや…その、なんだ…人間とは恐ろしいものだな」
ハルは満更でもない様子でひらりとロングスカートを翻し一回転する。
可愛いのは認める。いい気になっているのさえ愛しい。
「天使…」
そうボソリと呟いたのは朝比奈だ。どこかで聞いたフレーズだと思ったらそうだ、ジュリエットのことをこいつは天使呼ばわりしていた。
「あのな、朝比奈…俺は男だからな」
「はぁ?!知ってますよそんなこと僕のこと馬鹿にするのもいい加減に…」
「勇也に何かしてみろ、ぐちゃぐちゃにしてやる」
「小笠原さんはマジで怖いんでやめてください」
俺は早く着替えられないかとそわそわしていた。吹奏楽の発表はもうとっくに終わっているはずなのに、何故交代と言われないのだろうか。
「双木はミニスカートなんだね。ほらヒナちゃん見てみなよ」
「な…誰が男の脚なんて!」
滝川が茶化すように俺のスカートを捲ろうとしたので、咄嗟に手を強い力で掴んで捻った。
「てめぇ…殺すぞ」
「痛い痛い痛い!冗談じゃんか!」
「滝川〜、双木にそんなことしたら遥人に殺されるぞ?冗談抜きで」
ハルは笑顔のまま滝川のカメラに手を伸ばす。それを慌てて全員で止めた。
「あの、先輩…明日もそれ着ますか?」
「着ねえよ」
『双木くんなら明日も働いてもらうよー、代わってもらった子が調理やりたいらしいから』
「はぁ?!そんなの聞いてな…」
「僕、明日も来ますね!」
聞いてない、そんなの。俺だって調理のほうがいいのに。
まあ、その分ハルと一緒には居られるから少しだけいいのかもしれない。本当に少しだけ。
いいわけがあるか、女装した姿を皆に見られるんだぞ。
「双木先輩、萌え萌えキュンお願いします」
「やらねえよ」
「俺も見たい!やってくれよ!」
上杉以外の三人が萌え萌えキュンを催促してくる。親しい間柄だからこそ余計に恥ずかしくて躊躇していると、ハルが俺の前に出て胸の前に手でハートマークを作った。
「はぁい、これからお料理が美味しくなる魔法をかけさせていただきます。ご主人様もご一緒にお願いしま〜す」
「お前…まじか」
「はい、美味しくなあれ、萌え萌えキュン」
完璧と言っても差し障りのない萌え萌えキュンを見せつけられ、教室にいた全員が自然と拍手を送った。
「小笠原さんのはいらないんですけど」
「うるせえ、さっさと食え童貞共…じゃなくてご主人様」
「そんな間違え方あるか!」
可愛くはあったけれど少し引いてしまった自分がいる。あそこまで全力でやるものなのだろうか。
結局その後もメイド服を着させられたまま仕事をこなしていた。スカートの中がスースーして気になって、誰かにバレたらどうしようとばかり考えていた。
危なくなったらハルがヘルプに来てくれるが、俺はそのハルの香りを嗅ぐ度に体に熱がこもってしょうがない。
仕事に集中しなくてはいけないのに、俺は仕事が終わるまでずっとハルが欲しくてどうしようもないままでいた。
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