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第320話Aquarium②

「勇也…このマグロって」 「食いもんじゃねえからな」 「まだ何も言ってないのに…」 水族館の中は自由行動だった。真剣に魚を見ている者もいれば、魚なんて見てもつまらないとアイスを自販機で買って食べている者、ここぞとばかりに二人きりになって行動を共にするカップルなどもいる。 俺達も言ってしまえばその最後のものに含まれるのだけれど、ハルは色気より食い気という状態にあった。 「朝食抜いたからお腹すいちゃった」 「昼食までまだ時間あるから我慢しろ。自業自得だろ」 水族館なんて生まれて初めて来たかもしれない。連れて行ってもらう暇などなかったからそれも当然なのだが。 悠々と窮屈であろう水槽の中を泳ぐ魚を見て何故か居た堪れない気持ちになった。 『あの二人付き合ってたんだ』 『へぇ〜、意外だね』 ドキリとするが、その話をしていた方を見るまでもなく自分達のことを言われていたわけでは無いのだと勘づく。それも当たり前だろう、俺達の関係はもう周知の事実である上に意外もクソもないからだ。そんな軽いリアクションで済まされるのならそうでありたいくらいだった。 「ハル、危ねぇから前見て歩け」 「ごめん、ちょっとさっきから通知がうるさくて」 そう言ってスマートフォンの画面を見せたハルは困り顔だった。その画面をよく見てみれば、綾人さんからのメール通知が大量に来ているのがよく分かる。 そう言えば昨日ハルが何の気なしに綾人さんに旅行中の写真を送ったら、もっと写真を見せて欲しいとせがむ内容のメールをよこしてきたのを思い出した。 「水族館の写真が見たいんだろ、送ってやれよ。あの人も忙しくてこんなとこ来る暇無いだろうし」 「ちゃんと送ったんだよ、俺。それなのにさっきからやけにメールが多くて…件名もないから分からないし」 「急ぎの用事でもあるんじゃないか」 ここで何か嫌な予感がしていた訳では無い。俺だってなんの気もなく単純に思ったことを言ったまでだった。 「そうなのかな…一応見てみるけど」 一度立ち止まってハルがメールを読むのを待とうとすると、ハルは俺が止まるよりも先に人々が行き交う通路のど真ん中に立ち尽くした。 「おい、そんな所で止まったら邪魔になるだろ。聞いてんのかハル」 ハルは表情までが固まって閉まったみたいに口を開いたままで、おかしいとは思っていたが明らかに様子が変だ。 慌てて道の端まで引っ張ってハルの顔を覗き込む。具合でも悪いのかと顔色を伺ったが、言い表せぬ面持ちで俺の目をゆっくりと見つめ返してきた。 「ハル?本当にどうしたんだよ、具合悪いなら早めにバスに…」 「…帰ってきた」 「は?」 聞き返しても、ハルは壊れてしまった人形のように〝帰ってきた〟と同じことを繰り返す。 「大丈夫か?何が帰ってきたって言うんだよ、また何か怖いもんでも…」 「帰ってきたんだ、あの人が」 「だからあの人って誰だよ」 俺がつい呆れて語気を強めると、ハルはビクリと肩を震わせて小さい子供のように俺にしがみついた。 「か…あ、さん」 「母さんって、どうして今…だって」 背筋が凍りつく。この前聞いた話によればハルの母親は兄が失踪してからそれを追うようにいなくなってしまったらしかった。その母親が、数ヶ月していつの間にかひょっこり戻ってきたのだ。 それを喜べない理由を俺は知っている。ハルはあれほど愛を欲求し続けた末、正気を失った母親に忘れられてしまったのだ。 「行かなきゃ…」 「行くって、お前どこに!」 「母さんのところ」 「落ち着け、落ち着けよハル、なあ」 ハルの目は焦点を失ったのかと思うほど不安定に視線が彷徨い、覚束無い足がふらふらとどこかへ向かって歩きだそうとしていた。 通行人にぶつかりそうになったハルを引き止めて、自分の方を向かせるが視線が交わらない。自分でも焦っていてどうしていいかも分からず、つい咄嗟にハルの頬を思い切り打ってしまった。 「悪い、ハル!ごめんな…わざとじゃねえんだ」 取り繕ったようにまたハルを覗き込むと、若干腫れた頬を抑えながら俺の方に向き直った。 「…ごめん、俺どうかしてたみたいだ」 「ハル、さっきのは」 「大丈夫、俺が悪かったよ。少し取り乱した」 それ以上、俺は何も聞かなかった。 怖くて聞けなかっただけなのかもしれない。 この時何も言えなかったことを後悔することになるのだったとしても、俺が何か口を出せるような雰囲気ではなかったのだ。 美しく揺らめく色とりどりの魚達でさえ、何か心打つことは無かったのだった。

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