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第321話Aquarium③
修学旅行の三日目が終わるまで、ハルはずっとどこか沈んだ様子だった。無理しているのは見れば分かる。けれど周りに気を遣わせないように、貼り付けた笑顔を振りまいて楽しもうと必死になっているように思えた。
「楽しかったね。この家の方が居心地はいいと思ってたんだけど、今じゃ沖縄が恋しいくらい」
「なあ、ハル…」
「そうだ、金魚に餌やらなきゃ…大丈夫かな」
明らかに俺と話すのを避けてリビングへ走っていく。俺があの話に触れようとしているのに勘づいたのだろう。
「ハル、もう無理すんなよ」
「無理って、なんのことさ」
「はぐらかすな…見てる方だって辛い」
そう俺が言うと、ハルは水槽をじっと見つめたまま黙ってしまった。
「勇也…ダメだったみたい」
何がとこちらが聞き返す前にハルがこちらに振り返る。俺はそれを見てついぎょっとしてしまった。
ハルの頬に、一筋の涙が伝っていたからだ。恐ろしいくらい静かに、それが美しくさえあった。
「金魚、死んじゃった」
動かなくなってしまった金魚は家の庭に埋めた。旅行中ずっと放っておいたせいだろうか。
祭りの屋台の小さなプールの中では窮屈だっただろう。きっとうちの水槽なんてもっと窮屈だったはずだ。窮屈だと訴えることも出来ないまま、餌もろくに食べずぷかりと水に浮いていた。
窮屈だったのはきっと水族館で見たあの魚達だって変わらない。こんなことを考えているのは俺くらいだろうけれど。
「佳代子さんにでも頼んでおけばよかったかな、金魚の世話」
「ああ…最後にやった餌もまともに食べてないのは、どうしてなんだろうな」
「分かってたのかな、全部」
また静寂が訪れる。俺もハルも金魚の水槽のあった所から一歩も動かず、ただじっとその静けさを味わっていた。
「ハル、俺はお前に誤魔化さないで話して欲しい」
「嫌だ。ごめん、今話したくない」
「じゃあいつになったら話すんだ」
ハルは俯いて、下唇を思い切り噛むとまたポタリと雫を床に零した。
「ごめん、勇也」
「行かないのか、お前の母親のところ」
「行かない、行くもんか!」
突然大声を出したハル本人が小さくごめんと謝り、身を翻してダイニングテーブルに手を付いて深く息を吐いた。
「あんなの俺の母親じゃない…俺の顔も名前も、存在全部忘れてるんだから」
「けどお前あの時…」
「もう二度と会わないよ、あの人がいるなら家には行かない」
出てきそうになった言葉を一度飲み込んで、自分の中で噛み締める。
言うべきか否か、言ってやれるのは自分しかいない。
「心配なら会いに行ってやれよ」
「誰がそんなこと!…心配なんてこれっぽっちもしてない」
「不安なのか」
「…勇也に何が」
「分からねえよ、お前の気持ちは。分かってやれない。けど、お前が本当にしたいようにしてほしい」
ゆっくりハルの方へ歩み寄ると、一歩だけ後ずさってすぐに止まった。そんなハルの震える手を握って真っ直ぐ見つめる。
「ハル、どうしたい」
「…あい、たい…母さんに…会いたい」
「じゃあ会いに行こう。俺も途中まで一緒に行く、安心していい」
腕を伸ばして、ハルの首を撫でて抱きしめる。微かに震えていた体は、次第に落ち着いていった。
「ごめんね、勇也…ありがとう」
小さく首を横に振る。これくらいどうってこと無かった。ハルがいつも俺にくれた優しさに比べてしまえば、こんなこと。
「俺の事認識してくれるかも分からないし、まだ気がおかしくなったままかもしれないけど…母さんに勇也のこと、紹介するよ」
「いいのか、そんなことして」
「いいよ。俺がそうしたいんだ」
ハルが俺の体を強く抱きしめ返す。
少し、苦しかった。
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