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第322話Mam

修学旅行の振替休日。他の連中はきっと各々羽を伸ばして遊んだり、家で旅の疲れを癒したりている頃だろう。 俺とハルはコートを着て、外に待たせてある綾人さんの車へ乗り込んだ。 沖縄と比べるとこちらの冬はずっと寒い。車と外との温度差で、鼻がつんと痛くなった。 「すまないな、遥人。いきなり連絡して」 沈黙を破った綾人さんの声には若干の迷いが見える。綾人さんも事情を知っているから、きっとハルが母親に会うことを不安に思っているのだろう。 「父さんは悪くない」 「その…よかったのか」 「よかったのかって、何が」 ハルは分かっているくせに綾人さんをそう問いつめる。きっと変な気を遣って欲しくないのだろう。 ハル自身、これはかなり大きな決断だった。今更後戻りなど、する訳にはいかないのだ。 「父さんはさ」 一瞬車内がしんと静まり返る。ハルがこの先何を言うのか、俺も綾人さんも気が気ではなかった。 「どうして雇わないの、運転手」 「運転手?」 聞き返した綾人さんはさも自然を装うとしていたが、その拍子抜けしたような声に少し笑いそうになった。 「自分で運転するの、好きだったっけ」 「ああ…まあ、車自体私が好きだからね」 「俺、何も知らないんだね。父さんのこと…家族のこと」 ハルがそう言ってから家に着くまで、誰も言葉を発することはなかった。 車は、威圧を帯びてそびえ立つ白亜の建物の前で止まった。その白い壁には年季を感じさせる汚れさえもなく、ここだけ時が止まっているのかと錯覚してしまいそうだ。 「双木くんはどうする、ここで待っているかい?」 「勇也も連れて行く。問題ないでしょ、別に」 「…止めても聞かないんだろう。いいよ、さあ、双木くんも上がりなさい」 「ありがとう…ございます」 家の中に足を踏み入れ、長い長い廊下を静かに歩いていく。一体ハルの母親はどんな人なのだろう。前に見つけた家族写真に写っていたのは若い時のだろうが、とても綺麗な人だった。 「彼女は奥の部屋にいる」 「かあさ…あの人は、大丈夫なの?」 「…前とは大分違った様子だった。気味が悪いくらいに」 気味が悪いだなんてそうそう使う言葉ではない。一体綾人さんは、自分の妻であるはずの人に対して何故そんなことが言えたのだろうか。 一方ハルは、緊張からか歯をカチカチと小さく鳴らして小刻みに震えていた。その手を握って温めるようにさする。ハルと目を合わせて、頷いた。 「行こう、ハル」 「…うん、ありがとう」 ハルがドアノブに手をかけたが、その手にはほとんど力が入っていない。その上から優しく自分の手を重ねて、ゆっくりと扉を開く。 なんてことない普通のドアのはずなのに、それが通常の何倍にも重く感ぜられた。 「…遥人?」 聞こえてきたのは女性の声。それは間違いなくハルの母親のものなのだろうが、俺はそれに驚いてしまう。 それはハルも同じだったようで、横で固まって目を見開いている。 だって、ハルの母親はハルのことを全部忘れてしまっているはずだったから。 「遥人なのね!もう、お母さん心配したんだから」 「かあ、さん…どうして」 母親は俺に見向きもせず間に割って入り、ハルの体をぎゅっと抱きしめた。 写真で見たときと変わらずに美人だったが、どこか少し痩せすぎているような印象を受けた。 「綾人さんから聞いたわ、あなたお医者さんになるんですってね。そうなるってことは、勿論そうよね、だって私の子だもの」 誰が見ても明らかにその様子はおかしかった。言動が正気のそれではないような気がする。 「俺のこと…思い出したの?」 「何言ってるのよ、あなたは私の大切な一人息子じゃない。私と…綾人さんの、そうでしょ?」 ハルが一人息子でないのは確かだ。というか、聞いた限りでは母親は兄のことしか見ていなかったはずだ。やはり、何かおかしい。 「あら、そっちの方は…?」 急に母親が俺の方を向いてじっと見つめる。その眼光の鋭さに後ずさりしてしまいそうだった。 「遥人のお友達?…誰にでも優しいのはいいけど、仲良くする人は選んだ方がいいわよ」 初対面でいきなりこんなことを言われるとは思っていなかったし、それはハルも同じようで少し顔が強ばっていた。 「やだ、そんな顔しないで頂戴?ほら、お友達が来てるならちゃんとおもてなししないと。こっちへいらっしゃい」 手招きするその笑顔に恐怖を覚える。見たところおかしなところはないはずなのに、何故か直感的にどうしてもそう感じてしまうのだ。 「ねえ、母さん。どうしたの本当に…おかしいよ」 「おかしくなんてないわよ。それで遥人、今までどこに行ってたの?早くうちに戻っていらっしゃいよ」 「兄貴は…叶人はどうしたの、見つかったの?」 「叶人」という兄の名前をハルが発した瞬間、母親の笑顔はピタリと静止画のように止まった。 「何言ってるの、私の息子はあなただけよ。変な子ね」 「母さんこそ何言ってんだよ…前まで俺の事忘れてたくせに」 「忘れるはずないじゃない。だってあなたは私の…」 「ああもうなんなんだよ!ご機嫌取りのつもり?やめろよ、今まであんなに…!」 母親は大きなハルの声に驚き、肩を震わせ、涙を流し始める。 俺はどうしてもその姿があの人と、自分の母親と重なって見えてしまって仕方がない。いたたまれないような、やるせない気分になってしまう。 静かな部屋の中にハルの憤りを含んだ荒い息遣いと、母親のすすり泣く声だけが小さく反響していた。

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