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第323話Mam②

「大きな声が聞こえたけど、大丈夫か?」 焦った表情を浮かべた綾人さんが部屋に入ってきた。扉の外で待っていたらしいが、ハルの怒声を聞いて慌てて中の様子を確かめに来たのだろう。 俺はどう答えることもできず、恐る恐る綾人さんとハルを交互に見ていた。 「大丈夫、ごめん。大きい声出して」 「そうか…大丈夫ですか、そっちは」 綾人さんはハルの無事を確認すると、赤の他人に接するみたいに母親の方へ話しかけた。とても自分の妻に話しかけているようには見えない。どこか冷たく、二人の間には見えない壁があるようだった。 「酷いのよう…遥人が、さっきからおかしなことを…」 女の啜り泣く声はどうも良くない。不快だとかそういう訳では無いが、いたたまれなくて仕方がなくなるのだ。自分の母さんと、同じだ。 「おかしいのはどう考えたってそっちだろ、今まで一度も俺の事なんて…」 力の篭もったハルの肩を綾人さんが宥めるように擦り、俺に目配せをして部屋を出るよう促した。俺はそれに従うしか今することが見つけられず、未だ涙を流している母親をその場に残して部屋を後にした。 綾人さんは俺達にリビングにいるよう伝えてから再び部屋の中へ戻り、その場はしんと静まり返ってしまった。ハルは深呼吸をしながら自身の頭をガシガシと強く掻いている。落ち着こうにも落ち着けないといった様子だった。 「ハル、大丈夫か」 「うん…気を遣わせてごめんね」 「無理しなくていい。あんなの…どうにも」 言ってしまってからハッとして口を噤むが、ハルは意外にも落ち着きを取り戻たようにふわりと微笑んでいる。 「そうだね、どうしようもないよあんなの」 「…お前から聞いてた話と違うから、俺も驚いた」 「きっと、兄さんがいなくなっておかしくなっただけだよ。兄さんをいなかったことにして、代わりに俺をって魂胆なんだろうね」 表情を隠すように手で自身の顔を覆ってそう吐き捨てた。ハルが泣いてしまったらどうしようなんて心配をしながら思わず顔を覗き込む。 「なに、どうしたの勇也」 「いや…別に」 「俺ね」 ハルがそう切り出してから、また息を深く吸ってゆっくり吐き出す。言いづらそうと言うよりは、息が詰まって上手く言葉が出せないようだった。 「おかしいって分かってても、嬉しかったんだ。それに、そんな自分が嫌で嫌でたまらないんだ。変だよね、俺」 「それが変だなんて言わねえよ。俺だってそうなる気持ちはよく分かってるつもりだ」 この言葉に嘘はなかった。かつて自分も、父親だったあの男の言うことを簡単に信じてしまったから。 嘘に塗り固められた薄っぺらい愛の言葉すら、飢えていた心は、それを望んでいた本心は簡単にそれを信じてしまう。どんなに表面で否定をしても、どこかで信じたいと思っている自分が存在してしまうのだ。 「母さんが、俺の事を大事な息子って…遥人って名前を呼んでくれるのが、死ぬほど嬉しかった」 「ああ、分かるよ、大丈夫だから」 「本当の言葉じゃなくても、気が狂った故の結果でも、これが俺の望んでた事なんだってどうしても思い込んじゃうんだ。そんな風に考える自分が嫌いになるよ、あれだけ絶望に打ちひしがれてたのにさ」 人の心とは簡単で単純で、尚且つ複雑だ。紙一重だった。気持ちの整理がつかないと、自分が何を考えているのかもわからなくなる。ハルは今それと闘って、葛藤している。 「俺には勇也がいればそれでいいんだよ、充分なんだよ。そんなの分かり切ってることなのに、どうして俺こうなっちゃったんだろう」 「お前は悪くない、大丈夫だから」 震えるハルの体を強く抱き締める。抱きしめ返すその頼りない腕がさらに強く俺の体を包み込んだ。背骨が折れてしまいそうだ。けれど、離してなんて言えない。 今はただハルの心を受け止めたいんだ。 「勇也、愛してる。愛してるよ」 「ハル…」 ハルはひとしきり俺の体を抱きしめた後に、空気が抜けたように力を緩めた。 「ごめんね、また取り乱した。痛かったでしょ」 「いいんだ、お前が落ち着けたならそれで」 「優しいね、勇也は…」 愛おしそうに潤んだ目で俺を見つめ、頬をそっと撫でてくる。そんなハルから目を逸らせず、じっと見つめ返した。瞬きをするのも忘れて。 「俺、もう一度母さんに話すよ。勇也も一緒に来てくれる?」 「当たり前だろ」 ハルに手を取られ、また部屋の前へ歩を進める。その時ちょうど部屋から出てきた綾人さんと鉢合わせた。 「大丈夫だったか、遥人」 「うん、もう大丈夫だよ。母さんは?」 「あまり良い状態とは言えない…今は放心状態だよ」 若干の迷いが生じハルにどうするか視線を送ってみたが、ハルの目に迷いなどはないようだった。 俺の目を見て、握った手に力を込めてくる。 同じようにしっかりと手を握り返して、綾人さんに向き直った。 「母さんに話したいことがあるから、もう一度いいかな」 「遥人がいいなら好きなようにしなさい。もし何かあったら直ぐに私を呼んで欲しい」 「うん、ありがとう…父さん」 再びそのドアノブに、ゆっくり手をかける。今度は迷いなく、手に汗が滲むことすらない。 この扉は、未来へと繋がる扉のような気がした。

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