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第324話Mam③

扉を開くとすぐそこに母親がしゃがみこんでおり、こちらをゆっくり見据えてきた。 綾人さんが言っていた通り放心状態のようで、俺達の姿を見ても何も言葉を発しようとしない。それどころが何のリアクションもなかった。 「母さん、話があるんだけど」 母親は微動だにしない。ハルは一度深く息を吐くと、母親の目線に合わせてその顔をのぞき込むようにしゃがんだ。 「聞いてくれる?」 返事はなかった。それでもハルは僅かに微笑んで、口を開く。 「俺は遥人。母さんのお腹から二番目に生まれてきた」 そんな当たり前の自己紹介を、淡々と続ける。母親は未だに黙ったままだ。けれどこれがハルにとって、この親子にとって必要不可欠であるものなのだと思う。 「俺、ずっと寂しかったんだ。母さんが愛してるのは兄さんだけだったから。だから俺も愛して欲しかった、俺の事を母さんに見て欲しくてずっと頑張ってきたんだよ」 堪えきれなかった涙がハルの頬を伝ったのを拭おうかと迷ったそのとき、不健康で折れてしまいそうな細い指がその雫を拭い、手のひらで頬を包み込んだ。 「はる、と…?」 「そうだよ、遥人だよ」 「私…叶人と…あなたと、違うの、違うのよ」 ようやく言葉を零した母親は、ハルの顔を包み込んだままその美しい顔を歪め涙を落とした。 またその涙をハルが優しく拭う。俺は一歩下がってその様子を息を止めながら見ていた。呼吸さえ邪魔をしてしまいそうだった。 「大丈夫だよ、母さん落ち着いて。泣かないで」 「あなたのこと、忘れたわけじゃ…私は本当に愛して…愛してるの」 「…ずっとそう言って欲しかった。兄さんがいなくなったのが理由だったとしても、母さんに俺を愛して欲しかったんだよ」 これまで17年間ずっとハルが溜め込んできた想いが涙と一緒に溢れ出す。 母親の言葉はたしかに綺麗な思いではないのかもしれない。それでもきっとハルは良かったんだ。 この幻想のようなひと時が、どうか終わらないで欲しいと心から願うしかなかった。 「母さん、俺は医者になるよ」 「ありがとう…そうよね、だってあなたは」 「この家に生まれたからとか、そう育てられたからとか、兄さんみたいな理由じゃないんだ」 ハルは自分の頬を包んでいた手を握ったままゆっくりと下ろして、また優しく握った。 「自分がそうしたいと思ったんだ。父さんに憧れたっていうのもあるけど、どこの病院に行くとか、それは自分で決めたい」 「遥人…」 「母さんに構ってもらいたくて頑張るのはもうやめるよ。自分の意思で、自分のやりたいことをするから」 全て言いきったように一息をつく。そしてまた母親の顔を覗き込む。 「母さん、分かってくれる?」 「…わかった、わかったわ。お医者さんになってくれるのなら、そうね」 そう言った母親はどこか諦めのような表情を浮かべているような気がした。 「それと、母さんにもうひとつ言わなきゃいけないことがあるんだ」 ハルは俺の方へ視線を移す。一気に体へ緊張が走った。 「なあに、遥人が言いたいことって。お母さん、ちゃんと聞くから…ねえ、遥人」 そう言う様はどこか焦っているような、ハルに縋るようだ。 「俺には大切な人がいるんだ。ここにいる、勇也が俺の大切な人なんだ」 母親は目を丸くする。当たり前だ。いきなりそんなカミングアウトをされたらそれが当然の反応なのだ。 「大切な、お友達ってことかしら」 「違う。勇也は俺の恋人。俺達、愛し合ってるんだ」 自分がどんな顔をしていればいいのか分からず、ハルの言葉に顔が熱くなるのを隠すように俯いた。 「遥人、何、言ってるの。お母さん分からないわ、そんなこと言われたって。本気で言ってるの?」 「本気だよ。俺はこの先もずっと勇也と生きていくって、もう決めたんだ」 ハルの言葉が真実であると確認した母親は言葉を失ったようで、ただ口を開閉させた。 しばらくの間呆然としていたかと思うと、いきなりその首が俺の方をぐるりと向く。それに肩を跳ねさせると、立ち上がった母親は俺に詰め寄ってきた。 「ねえ、嘘だって、冗談だってあなたの口からも言ってちょうだいよ。お友達同士のふざけ合いなのよね?そうよね?」 「そ、の…これは、本当です」 ここで嘘をつくなんて出来なかった。ハルがせっかく紡いだ言葉を無駄にしたくなかったからだ。 「いい加減にしなさいよ!気持ち悪い!」 「母さん、もういいから、決めたことだから。勇也を責めないで」 気持ち悪いという言葉が予測できていなかったわけではないから、ダメージは大きくない。 ただ、ハルの母親から言われてしまうのはやはり堪える。 「あなたが遥人をそそのかしたの?遥人はそんな気なかったんでしょ?この子に脅されてるの?ねえ、遥人」 「違う。俺は心から勇也のことを愛してる。だから母さん、認めてとは言わないから、わかって欲しい」 「無理よ!男同士でいてなんになるのよ!あなたはお医者さんになるんでしょう?!それなのにこんな…あんまりよ、なんの生産性もないじゃない!」 母親のヒステリックな声が外まで聞こえていたのか、扉を開けて綾人さんが中へ入ってくる。 俺は、母親の言葉を真に受けて体が固まってしまっていた。 「大丈夫か二人とも!さあ、ここは私に任せて外へ出なさい」 「ねえ、母さん分かってよ。勇也は俺の事愛してくれたんだ、本当に」 「私はあなたを思って言ってるの!彼の存在は将来あなたのお荷物にしかならない、あなたは普通の人生を歩むべきなの!」 まただ。普通という言葉が、胸を締め付けていく。 綾人さんの制止を無視して、母と子の言い争いはヒートアップしていった。 「普通なんて誰が決めたんだよ!俺達は愛し合ってる、それだけでいいだろ!本当に好きなんだよ!」 「そんなの関係ない!じゃああなたね、遥人の赤ちゃん産めるの?」 それは突然俺に向かって投げられた言葉だった。 その言葉が槍のように、深く心に突き刺さる。 今までどこかで考えていたような、いなかったような。 考えることすら放棄して知らないふりをしていたそれに触れられてしまった。 俺は母親にはなれない。 ハルが、自分がずっと欲していた。 今まで心の奥底に閉じ込めていたのに、こじ開けられてしまった。いや、いつかは開けなければならなかった。 俺は、母親になりたかったんだ。 なれないことに今更気付かされてしまった。

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