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第326話For you

『勇也』 冷たい海にズボンの裾が浸かったその瞬間に、そう聞こえた。ハルの声だった。 しかしここにハルが居るはずはない。相変わらずどこを見渡しても、そこには海しかなかった。 立ち止まっている場合じゃない、ハルが来る前に早く消えてしまわなければ。そう思っても何故か足が前に進まない。視線を落としたまま自分の足に動いてくれと念じるが、その足は震えるだけでピクリとも動かなかった。 俺は、怯えているのだろうか。なぜ自分が消えてしまうことをこんなに恐れているのだろうか。恐れるものなんて、失うものなんて、もう何も無いはずなのに。そのまま波が引き寄せる浜辺に膝をついてしまった。 そもそもなぜ自分はハルがここへ来てくれるつもりでいるのだろうか。こんな自分見放されたっていい、ハルはいつか俺のことを忘れてしまうからそれでいい。そう思いたくても、忘れて欲しくない自分が邪魔をしている。 死ねなくてごめんと言った自分に、二度とそんなこと言うなと叱ってくれた。 あれだけ死にたかった自分はどこに行ってしまったのだろうか。早く居なくなろうと思えば思うほど、走馬灯のように思い出が頭をよぎる。 いきなり優等生の小笠原遥人が声をかけてきたこと、その歪んだ愛に犯されたこと、けれどそれを許した自分と、いつの間にか愛してしまった自分を。ハルが人として成長していくうちに愛おしさは増し、お互いに愛というものを身をもって知ることができるようになった。 いつの間にか周りには、ハルだけじゃなく助けてくれる友達が、大人がいた。 いつの間にか、俺は自分自身の意思で生きたいと思ってしまっていたのだ。 こんなこと思ってしまっていいのだろうか。こんな俺が、今さらもう一度ちゃんと生きてみようだなんて。 本当はハルが誰か別の女のものになってしまうなんて嫌だ。もう皆と会えなくなるなんて嫌だ。俺は看護師になりたいんだ。ハルがこんな俺を愛してくれるのなら、我儘を言ってでもずっと二人で生きていたい。 「勇也!」 まただ、こんな幻聴が聞こえてきてしまうほど自分はハルのことを考えずにはいられない人間になってしまったのだ。 身体を起こそうと湿った砂を握ると、背後から足音が近づいてくると共に力強く抱きしめられた。しかも足音は止まない。一体何事だというのだろうか。 「こんなところで何してるんだよ、馬鹿!」 「ハル…?本当に…」 「もう俺の前からいなくなったりしないでって…二回も言わせないで」 抱きしめられているから、首だけ無理やり振り返る。そこには項垂れたハルと、不安そうな顔をした見覚えのある面々が並んでいた。 「どうしてここがわかったんだ、お前」 「闇雲に追いかける前に冷静にならないとと思って、俺と父さんから皆にすぐに連絡した。そうしたら…」 「ったくお前らは何回迷惑掛けりゃ気が済むんだ」 その声は虎次郎のものだった。うしろには上杉もいる。そして真田も、後輩二人まで。虎次郎の下っ端たち、中学校時代の後輩達が、浜辺に蹲った自分を呆れた顔で見下ろしていた。 「なんで、こんなに」 「勇也は、俺だけじゃなく皆にとって大切な人なんだよ。母さんの言ったことは俺から謝罪する、本当にごめんね」 「ハル、俺は…」 「だからもう、こんなことしないで」 この我儘を、ハルに打ち明けることができない。どうにかまずはハルをどかさないとうまく喋ることもままならなかった。 なんとか向き合おうとハルを退けようとするが、俺が逃げるとでも思ったのかハルはさらに強く抱きしめて離すまいとした。 「ハル、わかったから一回…」 「ダメ、離したらまた勇也が」 「ちげえって、話すから退けって」 「離すもんか!」 「そういうことじゃねえ!」 頭突きをハルに食らわせて、力が緩んだところで腕を振りほどき立ち上がる。膝と手についた砂を軽く払った。 「待って勇也!」 「俺はもうどこにも逃げない。だから話を聞いてくれ」 深く息を吸い込む。これだけ人が集まってしまっているのを見ると、情けない姿ばかり晒せないとまで思えてきてしまった。 「俺は今、自分の意思で死にたくないと思った。もちろんお前のためとか、色々あるけど、その…」 「じゃあ、勇也は…」 「初めてなんだ。自分で考えて、死にたくないって言おうと思えたことが。我儘の言い方なんて、知らねえからさ」 「我儘なんかじゃ…ないよ」 ハルが微笑んで、俺の身体をまた強く抱きしめる。もうどこにも逃げないと言ったばかりなのに。 「俺はまだお前と一緒にいたい。本当は死にたくなんてない、あいつらと一緒に卒業したいし、まだ受験だってある…けど、俺とお前が一緒になって小笠原の苗字が途絶えるなんてことあっちゃだめだとも思う。俺は、自分が母親になれないのがどうしようもなく悔しいんだ」 思いの丈を全てぶつけた。無理をせずに、空気を読まずに、自分の思いをありのまま伝えることのなんと難しいことか。けれどこれを言わなければきっと後悔すると分かっていたし、このまま消えていくのは嫌だった。 「…確かに、将来のことに関して俺たちの考えは浅はかだったと思うよ。ただ好きなだけでどうにかなるほど社会ってもんは甘くない」 ああ、やっぱりハルの傍に恋人として寄り添うのはきっと長く続かない。言ったところで消化され、叶うとは限らないのだ。 「それでも、俺はいい。金はいつか返すし、迷惑はかけるかもしれねえけどお前と一緒じゃなくてもこのまま生きて…」 言っている途中で意志とは関係なく涙が零れる。それを拭うのに精一杯で、それ以上辛い現実を口にできなかった。 「違うでしょ、勇也の我儘、ちゃんと聞かせてよ。考えが浅いならもう一度考えていけばいいだけだ。好きなだけじゃダメだとしても、しょうがないで片付けられるほど軽い気持ちで愛してないよ」 「けど、それじゃあお前の夢は」 「俺の夢は、医者になることだけじゃない。勇也と一緒にいることまでが条件だよ」 それが無理なことはとうに分かりきっている。両立が出来ないのなら、せめて別の形でと言っているのがこいつには分からないのだろうか。 「綾人さんは、お前の父親はお前に病院を継がせたがってるんだ。それに、それに俺は何も残してやれないし」 「勇也は既に沢山のものを残してくれたでしょ。跡継ぎが欲しいから勇也を捨てるなんて考えには至らないよ。お腹を痛めて産んだ子じゃないとダメなんてことは無いし、子供だけが幸せの全てじゃない。俺達には俺達なりの幸せの形があることを、皆はさ…分かってくれると思うよ」 自分たちのことが許されていることを、なぜか自分自身は否定したがっていた。それをこうも優しく解きほぐされてゆくと、涙が止まらない。 これでいいのだと、肯定されることが怖い。けれど今ここで見守っていてくれる人々は、皆こうして俺たちの事を誰も止めることなく肯定してくれている。それを疑うことは、もはやもうできなかった。 「俺、は…ハルと一緒にいたい。幸せに、なってもいいのか、俺達は」 「いいんだよ、それは誰かが決めることじゃない。幸せになろう、勇也」 「なりたい…お前と、皆と一緒に…生きたい」 「…よく出来ました。行こう、皆きっと呆れて怒ってるよ」 初めてのような我儘は、皆に筒抜けのまま垂れ流してしまった。けれど誰もそれを咎めようとはしなかった。 苦労することや困難はこれから先も必ずあるだろう。ほかの人間より俺達には特別そういうことが多いかもしれない。 たまには立ち止まってもいい、誰に頼ってもいい。見守っていた皆がそう言ってくれているような気がした。俺は今までそれを見ないふりを続けてきたのかもしれない。 ハルに止められなければ死んでしまっていたような自分に別れを告げて、ハルと、そして自分のために生きていけるように。 「ありがとう…」 「なんか言った?」 「なんも言ってねえよ、さっさと歩け」 愛してくれた皆へ。

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