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第55話Palm
小笠原は、しばらくその体勢のまま動かなかった。だからもちろん俺も動けなかったのだが、この状況でとやかく言うのも悪いと思い、小笠原が動くのを待った。ようやく動き出したかと思うと、俺の左手をぎゅっと握った。
「ごめん。少しだけでいいから、手握らせて」
利き手ではないので、とりあえず空いている右手で数学の問題集を開き解き始める。小笠原はというと、俺の肩に頭をもたれて寄りかかっていた。何も言わず、ただただ手を握られる。それだけなのに、妙に緊張する。
その手から伝わってくるのは何なのか、憤りを感じているようではなかった。それは不安なのか、焦燥なのか、小笠原の手にかいた汗が自分の手の背に染み込んでいくように感じる。
なんのために勉強しているのだったか。そうだ、テストで勝てばその分こいつと離れることができる。こうして触れ合うことも無くなる。いや、何を考えているんだ俺は。負けたら最悪な事になるんだ、負けることはできない。
片手が使えないとうまく消しゴムをかけることができない。そろそろいいだろうかと、小笠原に声をかける。
「おい…」
返答を待ったが、何も答えない。おかしいと思い耳をすませると、小さい寝息が聞こえる。
逆によくこの体勢で眠れたものだ。体を揺すってみるが寝言のように唸るだけだった。
「おい、寝るなら自分の部屋に…」
「んー…」
肩からずり落ちていったかと思うと、もぞもぞと動いて俺の膝に頭をのせて仰向けに寝る。本当は起きているのではないか。しかし何度頬を軽く叩いても一向に起きない。
仕方が無いので、範囲のページまでを一気に終わらせることにした。
解き終わって問題集を閉じた頃には、時刻はまもなく12時になるころだった。小笠原は膝の上ですやすやと眠っている。流石にこのままにしておく訳にも行かない。こいつに慈悲などいらない、膝を蹴り上げるようにすると、小笠原の頭が浮いて再び膝に着地した。その衝撃でか唸りながら薄く目を開く。
「ん…なに?おはよ〜」
「夜中の12時だ。俺も寝るからお前は自分のベッドで寝ろ。」
「んーわかった…」
小笠原が起き上がったので、俺も自分のベッドに入った。すると寝ぼけているのか、小笠原もベッドに入ってきて寝ようとする。
「…おい、ここお前の部屋じゃねえから戻れっつってんだろ」
「やだ…一緒に寝る…」
「あー…くそ…」
俺が小笠原を部屋まで運ぶというのは到底無理だった。仕方なくそのままリモコンで電気を消す。
小笠原が俺を抱き枕代わりにしながら寝るので、俺の方は安眠とはいかなかった。
………………
目が覚めたのは午前6時。小笠原はまだ寝ている。腕の中からなんとか抜け出して、カーテンを開ける。僅かに部屋は明るくなった。やはり今日も暑そうだ、付けられたキスマークはあまり目立たないし、夏服を着た方がいいだろうか。
夏服に袖を通し、ピアスをつけて下に降りる。てきとうに身支度をすませ、朝食の準備をした。ふと、小笠原は昼飯はどうしているのだろうと思った。購買か何かで済ませているのかもしれない。しかし、いつもの癖で弁当に詰められるよう夕飯を多めに作ってしまった。
流石にないよなと思いながらキッチンの棚を見てみると、使われた形跡のない弁当箱が三つほど入っている。佳代子さんが用意したのだろうか。
しかしそのうちの一つは、明らかに男が使うものでは無い。チェック柄の可愛らしいものだ。小笠原の趣味ではないだろうし、差詰め女からもらったものを返していないといったところだろう。
シンプルな弁当箱二つを取り出す。やはりどちらも使われていないようで綺麗だった。
余っている量的にも二人分で丁度いいだろう。微妙に残してしまうのも勿体無いので、二つ分の弁当を作った。これからは朝に米が炊けるように夜準備した方がいいかもしれない。冷蔵庫で冷やした米は少し味が落ちてしまう。
朝食を用意して弁当箱を机の上に置いた。7時頃になると、小笠原が上から降りてくる音がした。洗面所に向かった後、リビングにやってくる。
「おはよ〜ねえ、なんで俺勇也のベッドにいたの?勇也一人で寝るの寂しかった?」
「お前が寝ぼけて勝手に入ってきたんだろうが」
「ほんと?全然記憶無いや」
「今日は自分の部屋で寝ろよ」
「別にいいじゃん…あれ、これ何?」
「…弁当。いつもの癖で作っただけだから、いらなかったら食わなくていい」
いらないと言われたらどう処理しようかと思ったが、小笠原は弁当箱を持ち上げると、じっと見つめて固まっていた。どうしたのかと声をかけようとすると、呟くように何か言っている。
「初めて…」
「…あ?」
「弁当なんて作ってもらったの初めて…ありがとう」
「……おう」
小笠原は、いつもの陽気な調子ではなく、静かに微笑んだ。まるで壊れ物を扱うかのようにそれを、大切そうに机の上に置いた。
「愛妻弁当だね」
「うるせえ死ね」
いつもの調子に戻ったように会話を交わし、朝食を取った。この前と同じように小笠原が先に家を出る。一度扉を開く音がしたが、すぐにリビングへ引き返してくる。
「ごめん、忘れ物」
弁当を忘れたのかと思って机を見るが、俺の分しかないので弁当では無いようだ。何を忘れたのかと聞こうとすると、急に肩を掴まれ唇が重なる。
呆然としていると、嬉しそうに笑い「行ってきます」と言って家を出ていった。
「…うざ」
学校であいつと顔をまともに合わせられる気がしない。全力で避けようと思った。
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