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第86話Without you
小笠原は、軽く荷物をまとめるとすぐに家を出ていってしまった。まだ、何も食べていないのに。
今になってようやく時計を見ると、もう12時を過ぎている。
朝食をとるにしては遅すぎた。
何も食べる気にならない。それに体が痛いから移動するのも億劫だった。痛いのは体だけでなかったから、それを紛らわすために動きたかったのだけれど、体はどうも思うように動いてくれない。
小笠原に〝考えておいて〟と言われたことについてはまだ手をつけたくなかったから、それから逃げようと頭の片隅で思っていたのかもしれない。
何もしたくない。何もしたくないけれど、何かしていなければ気が済まなかった。
腰が痛いのを我慢して壁に手を添えながら部屋を出る。当たり前だが家の中はしんとしていた。
この家ではあまり外の気温を感じない。そういう作りになっているのだろうか。もう七月中旬だというのにクーラーをつけなくても快適に過ごすことが出来る。
廊下をよろよろと歩いていると、まだ一度も入ったことのない部屋に目がつく。二階には俺と小笠原それぞれの部屋、例のベッドルーム、そして俺の知らない二部屋がある。
勝手に開けていいものなのかは分からないが、ほんの少しの好奇心でドアノブに手をかけると滞りなく扉は開いた。
一つは空き部屋のようで、本当に何も無かった。作り自体は俺の部屋とそう変わらないように見える。ということは、もう一つの部屋も同じようにただ持て余しているだけなのだろうか。
隣にあるもう一つの部屋の扉を開く。少しだけ埃臭いような気がした。
「本……?」
思わず目に入ったものをそのまま口に出す。この部屋は書斎のようだった。広さはベッドルームと変わらないほどで、中には本棚しかない。壁一面にズラッと本棚が立ち並び、どれも本がいっぱいに詰まっていた。
埃っぽいが、確かに最近使った形跡がある。少しだけスペースのある壁にハタキが掛けてあり、それで大雑把に掃除してあるようだった。
佳代子さんがやったとも思えないし、掃除をしたのは小笠原なのだろうか。
本の一つを抜き取って見てみると、それは医学書のようだった。
他の本の背表紙も、どうやらそれらしいタイトルがついている。取った本を押し込めながら戻し、少し不思議に思った。
小笠原は、医者にはならないと確かにそう言っていた。
それなのに、こうして医学書を今でも大切に保管している。掃除が大雑把だから大切にと言っていいのかは微妙だが、あの小笠原が掃除しているのだからよっぽどだろう。
佳代子さんもここには入れていないのだろうか、佳代子さんがいたのならもっと綺麗に掃除されていてもいいはずだ。
俺は、また小笠原の触れてはいけない部分に触れようとしているのかもしれない。
声を荒らげたあの日と、さっきの小笠原の話とを頭の中で組み合わせていく。
跡継ぎの兄だけが可愛がられ、小笠原自身はいないもの扱い…実際それがどういうことなのかはっきりとは分からないが、それ故に小笠原は愛に飢えているのだろう。
自分と境遇は違えど、やはり小笠原も同じなのだ。だからこそお互いそこに触れるのは禁忌であると分かっていた。
分かっていたはずなのについ触れてしまった、傷つけてしまったんだ。元あった傷をより広げたかもしれない。
しかし俺は、小笠原の過去に、傷に触れたいと思っていた。もちろん今回のようにいきなり抉るようなことがしたかったのではない。
治すとか癒すとかそういうことが出来るとも思っていない。ただ、知りたかった。あの冷たい瞳の奥にあいつが何を抱えているのか。
小笠原は、医者になりたかったんだ。諦めたつもりになっていてもこうした医学書は捨てずにとってある。しまわないか捨てるかの二択しか持たない小笠原が、引っ張り出すこともせず、こうして仕舞ったままにしているんだ。
本はどれも新品ではなかったし、それだけ本気だったのだろう。
なにかに縛られて、変わろうとしても変わることのできない小笠原が自分と重なって見えた。
このしがらみはきっと一人では解けない。解こうとして迂闊に触れると、まだ治りきっていない傷が開き始めてしまう。
だめだ、こんなことを考えたら記憶を無理矢理に引きずり出される。
落ち着こうと埃っぽい部屋の空気を吸い込んでしまえば、噎せて咳き込み、また呼吸がうまく出来なくなる。
這いずるようにして部屋から出て自室へと戻ろうとする。前もよく見ず飛び込んだその部屋は、小笠原の部屋だった。
「っ…はっ…ぁ…」
もう動くこともままならず、その場でうずくまる。こういうとき、いつもどうしていたのだろうか。
一人でいたときも何度か過呼吸になったことがあるはずなのに、その治め方がわからない。一人とはこんなにも苦しいものだったか、息ができないのはこんなにも辛いことだったか。
わからない。もう何も思い出せなかった。ただ優しく抱きしめて背中をさするあの男に全て塗り替えられてしまったから。
どこかに体重を委ねたくてベッドまで這い、その上に頭をもたれる。荒い呼吸の中で、ふと優しい香りに包まれるのを感じた。半ば無意識にシーツを手繰り寄せ顔を埋める。
あいつの匂いだ。鼻腔を掠めるそれは、都合よく優しい小笠原だけを脳裏に浮かび上がらせた。ようやく治まってきた過呼吸とは別に、涙が溢れてしゃくりあげる。
「な…んで…なんで…っ…一人に、しないで…」
幼い頃の記憶の中の母親か、家を空けて決別を匂わせた小笠原か。どちらに向けて言ったのか分からない。どちらにも言えずにいたことなのかもしれない。
握りしめたシーツを涙で濡らしながら、自分の名前を呼ぶ声を思い起こして消え入るように眠りに落ちていった。
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