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第87話Regretー遥人ー
そそくさと逃げるように家から出ると、既に迎えの車が家の前にとまっていた。
いつの間に来たのか知らないが、この立派な黒塗りのベンツは上杉さんのものに違いないだろう。
車に歩み寄ってウィンドウを軽く叩く。すると、上杉さんはいきなりウィンドウを開けたので、すぐに手を引っ込めた。
「…あのガキ…双木はどうした?」
「あぁ、家に残っててもらうから」
「連れて来ねぇのか?…そもそも、双木がいるから家には帰りたくないって駄々こねると思ってたぜ」
「いいんだ、もう…」
「何かあったのか?まぁいい、その話も含めて後で聞こう。とりあえず後ろに乗れ」
荷物はそう多くないので、それを抱えたまま後部座席に座った。
30分ほどすると、見覚えのある忌々しい建物が見えてくる。曾祖父が開業して以来ずっと小笠原の男子が世襲し続けているクリニックだ。元はそう大きくないクリニックだったが、いつしかここまで立派になった。
正直、病院と呼んでも差し障りない。一般にクリニックと病院の違いなどあまり浸透していないから、人前ではまとめて実家は『病院』だと喋るようにしていた。総合病院と間違えられるとこれまた厄介なのだが。
「遥人?ほら、着いたぞ」
「あ、あぁ、ごめん…降りるよ」
気づくともう家の敷地内だ。病院からそう離れていない目を引く豪邸。小さい頃は違和感などなかったが、やはり異常に大きい。俺はこの大きくて居丈高な家が窮屈で嫌いだった。
「父さん、今日は病院にはいないの?」
「仕事を少しの間だけ抜けると言っていた…あいつはもう少し休んだ方がいい」
「…それでも珍しいね、仕事を抜けるなんて」
「あぁ…荷物を置いてきたら、あいつの部屋に行こう」
懐かしい自分の部屋に行き、荷物を無造作に投げ入れる。部屋は特に変わった様子がなくて安心する。内心、自分の部屋はもう残っていないのではないかと思っていたから。
上杉さんに続いて父の部屋の前に立つ。久しく父と対面していなかったから、妙に緊張する。コンコンとノックをすると、「どうぞ」と短く返事が聞こえた。両開きの扉をゆっくりと開ける。
「久しぶりだな、遥人」
「家にいた頃も、顔合わせることなんてほぼなかったけどね」
少し皮肉っぽくそう言い返す。上杉さんはやれやれといった感じでため息をつきながら椅子に深く腰掛けて、部屋をぐるりと見渡した。
「しっかし、なんだこの部屋は…まるで応接間じゃねえか」
「それか仕事でしか使わない部屋なのだから仕方ないだろう。あとテーブルの上に足をのせるな、みっともない」
父は眉を顰めてそう指摘した。歳はもう40になる頃だろうか、自分の親ながらとても顔立ちが整っていると思う。上杉さんは強面だから少し老けて見えるが、渋くてとても格好良かった。
この二人が友人同士だったのだと思うと少し不思議だ。
「相変わらず細けぇな…よし、そろそろ話を始めようぜ。時間ないんだろ?」
上杉さんがそう言って父の方に目をやると、父は黙って頷き、小さく口を開いた。
「例のことだが…遥人や叶人に危害が及ばないよう、なるべく安全なところにいて欲しいんだ」
「何、安全なところって…」
叶人という二つ上の兄の名前が出てピクリと眉が動く。
「家にいるのはあまり好ましくない。だから夏休みの間は私の弟の所にいてほしい」
「叔父さんの…?それって、俺も兄貴も一緒にってこと?」
「あぁ。それに、あいつのクリニックで勉強もさせてもらえるだろう…それでいいだろうか?弟には、もう了承を得て…」
「俺が勉強することなんてないよ」
少し低い声でそう返す。黙っていた上杉さんは、宥めるように俺の肩に手をのせた。しかし、言葉は止まらない。
「なんで俺と兄貴が一緒に叔父さんのところで勉強しなきゃいけないの。いいよ別に、俺は医者になりたいわけじゃないから」
「遥人…でも、私は」
「家にいない方がいいって言うなら、ひとり暮らしでも構わないでしょ」
「しかし、一人なのは危険だ…」
「俺と兄貴は仲のいい兄弟なんかじゃないよ。違う育て方されてるんだから当たり前だけど。まぁ、関わりもしなかった父さんにはわからないだろうけどね」
父は言葉を失ったように俯いた。すかさず上杉さんが俺に言葉をかける。
「なあ、遥人…もうそのへんにしないか」
「ごめん。でも俺、やっぱり叔父さんの所には行かないよ。上杉さんの家なら問題ない?」
「は?お前、何を言って…」
「これからしばらく上杉さんの家に行くよ。この家には泊まっていかない。それならいいでしょ?」
上杉さんは、また深くため息をついた。
「わかった、わかった…まぁ、この異常に目立つ家よりはマシか…お前は、それでいいか?」
父は顔を上げて、小さく頷いた。
「でもよ、遥人。双木のことはどうするんだ?」
「…わかんない、帰ったらいなくなっちゃってるかも…」
「はぁ?お前ら喧嘩でもしたのか?」
黙って顔を背けると、上杉さんは「さては図星だな」と言ってニヤニヤ笑っていた。
一方父は首を傾げている。
「すまない、その〝双木〟というのは誰のことだ?」
上杉さんは気をつかってくれたのか、黙っている俺の代わりに答えようとする。
「あぁ…その、遥人の友達だよ」
せっかく上杉さんがそう言ってくれたのに、俺はなんでもないように言葉を重ねた。
「違うよ、俺の好きな子。男だけど。この前から一緒に住んでる」
その瞬間、場が凍るのを全身で感じた。
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