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第89話Keeper

頭痛がして目を覚ます。小笠原の部屋のベッドに頭をもたれたまま、眠ってしまったようだ。 シーツはもう乾いているが、洗った方がいいだろうか。 でも、きっとこれを洗ったら全て消えてしまう。明日に…明日になったら洗おう。 部屋の時計を見てみると、既に午後6時になっている。 そんなに眠ってしまったのか。朝から何も食べていないから、何かしら食べた方がいいのだろうが、どうしても食べる気になれない。 気づくとじっとりと汗をかいていたので、とりあえずシャワーを浴びることにしよう。 脱衣場まで行き、服を脱ぐと自分が鏡に映る。顔は泣きはらしたあとで酷かった。そして手首には少し縛られた痕が残っているが、キスマークなどは付けられていないようで、以前つけられたものも綺麗に消えていた。 小笠原の痕は時間が経てば消えてしまう。もう、何も無かったかのように。これからまたつけられることも無いのだろう。 刻まれた小笠原の記憶も、こうして消えていくのだろうか。目に見える印が無くなったら、もう思い出さないのだろうか。 この家を出ようと思わないのは、自立できる自信がないとか、虎次郎や小笠原の父に援助してもらうのは気が引けるとかそういうことではないのだ。 勿論それも考えてはいた。しかし、それよりもずっと自分の心に深く根を伸ばしている何かが邪魔をしている。 風呂を上がってから再び寝ようとしたが、さっき寝てしまったため全く寝つけない。 小笠原も、もう俺とは一緒にいる気がないのだろうか。 もう欲求は満たしたから、用済みということか。それともやはり俺が余計なことを言ってしまったから…いや、考えていたらキリがない。 結局、その日寝たのは深夜になってからだった。 ……………… 頭の中でインターホンの音が鳴り響く。夢の中かと思ったが、どうやら現実のようだ。起き上がって急いで下に降りると、ガチャリと玄関の扉が開いた。 そこにいたのは、両手に荷物を抱えた佳代子さんだ。そうだ、今日は日曜日だった。小笠原が帰ってきたと勘違いしてしまった自分が恥ずかしい。 「あら…双木さん、今日はゆっくりなのね?遥人さんはまだ寝てるのかしら」 佳代子さんは口元に手を当てて、ふくよかな顔に笑窪をのぞかせた。 それなのに俺は、うまく表情を作れなくて感情を露わにしてしまう。 「いや…その…あいつは、今日はいません」 「…お出かけかしら?」 「家に…実家に、何日か帰るって」 「何か、あったの?」 「それが…その…」 なんと言えばいいか分からず考えていると、目の前が急に白く点滅し始めた。おかしい、足元が不安定で床が揺れているかのようだ。とても立っていられず、その場にしゃがみ込む。 「双木さん、やだ…どうしたの?!」 「や…なんか…すみません…」 「貧血かしら…あなた、朝ごはんは食べてないの?」 「昨日の朝から…何も…」 「昨日から?!そのせいじゃない!もう…若い子はすぐに無茶するんだから〜」 そう言うと佳代子さんはバッグからエプロンを取り出してそれを身につけ始めた。きゅっとエプロンの紐を結んで俺の方を見る。 「今からご飯作るから、あなたはソファに横になってなさい!」 「いや…そんなの、悪い…です」 「なーに言ってるのよ、そんなになるまで我慢して…あとで遥人さんの話もちゃんと聞かせてちょうだいね」 言われたとおりにソファに横になると、佳代子さんはキッチンでテキパキと動いて料理を作り始めた。 さすが本物の主婦、動きに無駄がない。普通の母親は、みんなこうなのだろうか。 しばらくすると、美味しそうな匂いが漂ってくる。 「双木さん、出来たわよ。いらっしゃい」 「すみません、ありがとうございます」 ダイニングテーブルの上には、ほうれん草の白和え、魚の煮付け、野菜のたくさん入った味噌汁、ひじきの混ざったご飯が置かれていた。栄養のバランスがとれているし、何よりこの短時間でさっと作ってしまえるのが凄い。 「やっぱり和食が一番よね。さあ、どんどん食べなさい」 「ありがとうございます、いただきます…佳代子さんは?」 「私はいいのよ、もう食べてきたから…どう、お口に合うかしら?」 「はい…美味しいです」 佳代子さんの作った料理は本当に美味しくて、心がこもっていた。こんなものを人に作ってもらったのは初めてかもしれない。 「あの…この煮付けは、醤油と砂糖とみりんと…あとは何を使ってるんすか…?」 「ええと…生姜と、料理酒かしらね」 なるほど…この仄かな香りは料理酒のものか。まだ作ったことがないから、今度小笠原にも食わせてやろう。 と、無意識にそんなことを思ってしまい手が止まる。そうだ、もうあいつに何か作ってやることもないのかもしれない。 優しい味が傷に染みて、ポロポロと涙が零れてくる。折角の味噌汁の中に、塩気を含んだ雫がポタリと落ちた。 「ど、どうしたの…?まだ、具合悪い?」 「いや、大丈夫です…っ…すみません…」 「もう、さっきからずっと『すみません』ばっかり…遥人さんと何かあったんでしょう?食べてゆっくりしてからでいいから、おばさんに聞かせてくれないかしら?」 涙を拭って食事を再開する。やはり少ししょっぱかった。人の優しさに触れる機会が少ないせいか、佳代子さんはまるで聖母のようだった。 食事が終わったあと、佳代子さんが食器洗いを始める。手伝うと言ったのだが、頑なにそれは許してくれなかった。 しばらくして、佳代子さんと対面する形で席についた。 「もう、大丈夫かしら?」 「はい」 「遥人さんと、なにがあったの?」 重い口を開いて、少しずつ今朝のことを話す。勿論俺たちの関係についてはハッキリと言えないので、少し虚実ないまぜになってしまうのだが。 「そうね、確かに遥人さんの家も色々複雑だけど…はっきり言うわ」 「…はい」 「多分それ…ほとんど遥人さんが悪いわよ」 「いや、でも俺も…」 「だって、勝手に言うだけ言って自分が言われたら逆ギレでしょ?も〜小学生じゃないんだから…」 佳代子さんは呆れた様子だった。いつでも二人だけの間で完結していたから、第三者の意見を聞くのは新鮮だ。言われてみるとそんな気もしてくる。 「まぁ…たしかに…」 「あなたは、どうして遥人さんと一緒に住んでるの?」 「それは…前に話した通りで…」 「そうじゃなくて、嫌になったりしないの?」 「まぁ、嫌ですけど…」 佳代子さんは「二人とも変よね〜」と笑いながらお茶を啜る。 「遥人さんは…いつ帰ってくるんだったかしら」 「二、三日って…あ、でも」 「でも?」 「嫌だったら、出ていっていいって…経済的な援助はその、虎次郎さんとか、小笠原の親がするから…みたいな」 「そんなこと言ったの…?」 これまで以上に大きなため息をついて両手をバンと机につく。 「ど、どうしたんすか…」 「も〜何やってるのよ遥人さんは…双木さんの話を聞いている限りでも、私に何かしら隠しているような気もするし…」 「別に、隠しては…」 「そうかしら…?まぁ、私に話せないことがあるのはしょうがないとしても…ちゃんと二人の間で話し合った方がいいわ。双木さん、別に出ていく気はないんでしょう?」 頷くこともできなくて曖昧に小さく唸る。 「まぁ、私は出ていってやるくらいしてもいいと思うけどねぇ…なにがあなたを繋ぎとめているのかしら」 「俺も…分からないです」 本当は、薄々気づいてる。張り巡らされた根、俺に絡みつくそのしがらみの正体に。 「前は、ちょっとからかうだけのつもりだったけど…やっぱりあなたは遥人さんのこと……」 「なんですか…?」 「ううん、なんでもない。私が言うべきじゃないわね」 意味ありげに微笑んで、席をゆっくり立った。 「あ…もう、行くんですか?」 「ええ…また何かあったら連絡してちょうだいね」 「分かりました」 玄関まで佳代子さんを見送ると、この前と同じように出る直前でこちらを振り返る。 「そういえば…前は遥人さんのこと『遥人くん』って呼んでいた気がするんだけど…やめたの?」 あ。そういえば佳代子さんに初めて会った日、小笠原呼びは変かと思って呼んだこともない名を口にした気がする。 「あ、それは…その」 「ふふ、いいのよ。何があるかは知らないけど、気をつかってたのよね?」 佳代子さんは、なんでもお見通しのようだった。この人はやっぱりなにか不思議な力でも持っているのだろうか。 「きっと遥人さんも、こんなこと初めてだからどうしていいかわからないのよ…最終的に決めるのはあなた達だけれど、少なくとも遥人さんはあなたと離れたいだなんて思ってないわ」 「どうして…そう言いきれるんですか」 「女のカンよ」 少し拍子抜けしたが、そう言ってウインクして見せる佳代子さんはとても頼もしく見える。最後に「長居しちゃったわね」とだけ残して帰っていった。 人と話せただけで、少しだけ心が軽くなった気がする。俺は馴れ合わないんじゃない、傷つくのが怖くて塞ぎ込んでいただけだったんだ。今だってまだ人を信じきれている訳では無い。 それでも、関わることで俺を変えてくれる人間が確かにいる。それはもちろん佳代子さんだけでなく、小笠原も。 「はる…」 あとの一文字を言おうとして我に返り、意識的に口を閉じる。何気なく呟やこうとしていた言葉は、自分自身をもひどく驚かせた。

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