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第90話Enough
佳代子さんが帰ったあとは、ひと通り家事をしたが落ち着けなかった。
夜になったがあまり食欲がないので軽食だけを取り、風呂に入って寝床につく。明日からはもう学校に行かなければならない。
とは言っても、この先一週間はずっと早帰りで、金曜は終業式だ。
休んでもいいのだが、もしかしたら明日学校に小笠原が来るかもしれない。少しだけ話すことはできないだろうか。
明日小笠原に会うかもしれないと思うと、目が冴えて眠れなかった。昨日今日と寝すぎたせいもあるのだろうが、気づいた頃にはもう外は明るくなっていた。
この家にいるとどうもそわそわしてしまうので、いつもよりかなり早めに家を出る。
この時間に来ているのなんて、朝練のある運動部だけだろう。屋上で時間を潰せば何とかなるだろうと思い、クラスには行かず階段をずっと上まで登っていった。
珍しく屋上の扉が開いている。先客がいることなんてほとんど無いのだが、教師だったら面倒だ。屋上に出て人気のある方を伺ってみると、いきなり何かが目の前に突き出される。
寸でのところでそれは止まるが、目と鼻の先だ。本当に心臓が止まるかと思った。
「っ…!」
「すまない!誰かいるとは思わず…」
そこには、竹刀を握った上杉がいた。相変わらずの道着姿で、額には汗をかいている。
「なにしてんだ、こんなところで」
「剣道場が閉まっていたのでここに来た。本当は駄目だと分かっているのだが、ここなら他の生徒も来ないしな」
「そうか…邪魔して悪かった、俺は戻る」
「いや、待ってくれ。丁度お前に話したいことがある」
「俺に…?」
上杉が一体俺に何の用だというんだ。もしかして、前の話の続きだろうか。
「実は、今うちにあの男…小笠原が居候しているのだが」
「小笠原…?!あいつ、実家に帰ったんじゃ…」
「どうもあちらの父親と揉めたようでな…その反応を見る限り、やはりお前達は一緒に住んでいるのか」
「は…?なんで知って…」
「小笠原がそう言っていたのを聞いたんだ。俺の父と話しているようだったし、聞き耳を立てるつもりはなかったのだが…」
そうだった、上杉の父親はあの虎次郎だ。小笠原は親と喧嘩して虎次郎の家に行ったということか。ついあっさり小笠原と住んでいることを認めてしまった。
「…それで、話はそれだけかよ」
「いや、違う。小笠原はしばらく家に帰れないだとか、学校に行けないだとか言っていた。おそらく今日も来ないだろう」
それを聞いて、自分はわかりやすく落胆してしまった。どうして家に帰ってこないのだろうか。そんなに俺に会いたくないのか。
「別に、何も気にしてない…」
「そうか?ならいいのだが…本題はここからだ」
「あ?本題…?」
上杉は深呼吸をすると、ゆっくり俺の方を見て口を開く。口を開くが声が出ていない。口元を手で覆って、小さな声で話し始めた。
「お前と、小笠原は……るのか」
「は?聞こえねえよ」
「だから、お前と小笠原は…っ…その…」
「そこで詰まるなよ!」
上杉はもう一度大きく息を吸い込む。そして、あらん限りの大きな声で叫んだ。
「お前と小笠原は愛し合っているのかと聞いている!!」
「はぁ?!」
いきなり衝撃的な質問だが、叫んだ本人はゆでダコのように顔を真っ赤にしている。
「いや、ちょっと待てよっていうか声でけえし誰かに聞かれたらどうするんだよ!!」
「す、すまない…それで…どうなんだ」
「どうって…何したらそういう思考に至るのかわかんねえよ…」
「そうか…てっきり俺は二人が恋人同士なのかと」
「しばくぞてめぇ」
「しばく?何を…茶か?」
「そういう意味じゃねえよ…」
ダメだ、こいつも大概話が通じないタイプの人間だ。この学校終わってるな。どいつもこいつも人の話を聞けない輩ばかりだ。
「では…愛し合っているわけではないのか?」
「あ、当たり前だろ…」
何故か少し吃ってしまった。そう、愛し合ってなどいない…一方的な…一方的というのは、どちらがどちらに向けているものに対してなのか、自分でもよくわかっていなかった。
「やはり、あれは無理強いしたものだったのか」
「はぁ?なんの話…」
「生物室の窓から、見えたんだ」
「は………?」
一瞬心臓が止まってしまったのかと思うと、鼓動が急速に激しくなる。嘘だ、まさか、そんなことは
「あの時、たまたま開いていたカーテンから外を見たんだ。空を見上げた時、この屋上に二人の人影があった」
「嘘…だろ、なんで…それ…」
「その…学校で、なんて、破廉恥な事をしているのだと…思っていたのだが、よくよく見たらどちらも男で」
どうして上杉がそんなに恥ずかしそうに話しているんだとか、今はそんなことも突っ込む気にならない。見られたんだ、あの様子を。自分の屈辱的な痴態を。
「い、や…だ…いや…だ」
「ど、どうしたんだ?」
息が苦しい。過呼吸というほどでもないが、息がしづらくて、冷や汗が背中を伝う。
「それで…どうするつもりなんだ…俺には、もう何も…失うものも、居場所も…」
「俺は男同士だからどうとか、お前を脅して貶めようなんて全く思っていない」
「なんで…今まで黙って…」
「実はその日、何故か真田に『生物室の窓からなにか見えなかったか』と聞かれた。真田から話しかけられて動揺したということもあったが、俺は何も見ていないと答えた」
そういえば、生徒に確認を取るように小笠原が頼んだ相手は真田だったなと思い出す。真田は何も知らないのだろうか、何故やすやすとその役目を引き受けたのか…
「黙っていたというか、これは俺の中にとどめて忘れてしまおうと思っていた」
「じゃあ、それをどうして今…!」
「お前と小笠原に関わってしまったからだ。父と小笠原の話を聞く限りではお前も〝あの件〟に巻き込まれる可能性があると思ってな。俺は関わりたく無いから忠告だけしようと…」
あの件というのは、例の武田とかいう組の話だろうか。
「それで、なんで小笠原と俺の関係に言及する必要性が…」
「あぁ…いや、その…好いてもいない相手にあのような行為を強制させられたのだろう?…訴えていいんじゃないのか」
「訴える…?」
〝好いてもいない相手〟…か、そうだ、確かにそうだった。
「訴えたところで、うちや小笠原の父親が事を揉み消すかもしれない…それに、もし脅されていたりするのだとしたら…」
脅されていたのは前までの話だ。そう、俺はもう解放されている。脅すものも俺を縛り付けるものも、なにもかも形のあるものは消え去ったのに…形のない不安定なものにまだ縛り付けられているんだ。
「訴える必要はねえよ…別に脅されてもない」
「何故だ、本当にお前はそれでいいのか?」
「いいんだ。傷つくのは俺だけで充分だ」
「それは、どういう…」
「俺が傷ついて悲しむ人間はもうどこにもいない。いや、もともといなかった。あいつは…小笠原は人の痛みが分からないから平気で人を傷つける。今まで何人がその毒牙にかかったかは知らないが」
「ちょっと待ってくれ…どうしてそうなるんだ」
「本当に誰もいないんだ、だから受け止めるのは俺だけでいい。他の誰かが傷つくこともそうだけど…何よりあいつに人を傷つけてほしくない」
「小笠原、は…どうなんだ」
小笠原?傷つけている本人が悲しむわけないじゃないか、 あいつはそれを楽しんでいるのだから。あの、冷たく悲しそうな目で見つめながら。
「あいつは…俺にも分からない。何でか俺に拘ってるが、もしかしたら、もう帰ってこないのかもしれない…」
「拘っているのは、お前の方じゃないのか?」
「は……?」
一瞬その言葉の意味が理解出来なかった。俺は驚嘆の表情を浮かべたまま化石してしまったかのように動かなくなる。
「小笠原が帰る帰らないにしたって、お前はもう自由の身じゃないか。そういう風に言われたんだろう?なぜお前の方から家を出ていかないんだ」
「そ…れは…」
拘泥しているのは、自分自身。持ってしまった感情に縛られて、切り離そうとしないのは自分の意思だ。絡まったものを二人がかりで解くより、刃物で断ち切ってしまった方が早いのは分かっている。そうしようとしないのは俺自身なんだ。
「本当に…お前はそれでいいんだな」
「……っ」
その時、8時25分のチャイムが鳴った。下の方には遅刻しまいと必死に駆ける生徒が見える。あと5分でショートホームルームが始まるのだ。俺は俯いたまま、足早に屋上から出ようとする。
「あ…っ待ってくれ、まだ〝あの件〟の話が!」
上杉が何か言っているが聞こえない。もう何も聞こえなかった。何も聞きたくない、考えたくないんだ。
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