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覚の章23

「中が騒がしいな」  屋敷に近づいたところで、鈴懸と白百合は中から聞こえてくる賑やかな声に気付いた。楽しそうな声と、音楽。何かをやっているのだろうかと、鈴懸は眉をひそめるが、対して白百合は慌てたようにぴょこぴょこと忙しなく動き出す。 「す、鈴懸! 急ぐぞ! 間に合うかもしれぬ!」 「えっ?」 「玉桂は月の満ち足りに合わせて婚儀を開くつもりなのかもしれぬぞ! この騒ぎは婚儀の最中なのではないか!? まだ織があやつのものになっていないかもしれない! 急ぐのだ!」 「!」  白百合の言葉を聞いて、鈴懸は弾かれたように走り出した。後ろを着いて行く白百合も、なんとか置いて行かれないように必死である。  鈴懸は、もしもすでに織が玉桂の嫁になっていたのなら、彼に命を絶たせるつもりだった。彼を殺して、自分が邪神になる覚悟でいた。しかし――間に合うのなら。間に合うのなら、何が何でも玉桂から織を奪い返したい。  生きている織を、この手で抱きしめたい。 「――おい、止まれ、鈴懸! あそこに、何か、いる……!」 「……あれは、……鬼か?」  前方に、巨大な妖怪が二匹。門番か何かだと察した二人は一瞬足を止めるが――鈴懸はまたすぐに駈け出した。白百合は悲鳴をあげながら鈴懸の着物の裾を引っ張って彼を止めようとしたが――視界に入った人影に、目を瞠らせる。 「……あれは、……」 「ん? 人間?」 「あの鬼を従えているのは、まさか、……」  二匹の鬼の間に、色鮮やかな着物を身にまとった、少女。  ずいぶんと、見知った顔だ。  そう――彼女は、詠。 「よ、詠……! 何をしておるのだ!」  少女が詠であると気付いた瞬間、白百合は鈴懸の前に躍り出た。今の今まで後ろを着いてきただけだったくせに、と鈴懸は僅かばかり驚く。  詠は二人に気付くと、は、と目を瞬かせる。信じられないといった顔をして、目の前までやってきた白百合を見つめた。 「白百合さま……と、鈴懸さま……何をしに来たんですか……!」 「おまえたちを助けに来たんだっ……、と鈴懸が言っておる」  ばちりと詠と目が合った白百合は、一瞬戸惑ったように視線を漂わせる。しかし、じろ、ともう一度詠を見つめると、ばさっと着物を翻して詠を指差した。 「き、貴様……なんだその鬼たちは! その格好は! 妾の知っている詠じゃないぞ!」 「……貴女が私の何を知っているというのです。これが私ですわ、白百合さま。この大きな鬼たちと、華美で下品なこの着物。私らしいじゃありませんか」 「らしくない! らしくないぞ! お、おまえは……たしかに、綺麗ではなかった、黒いものを抱えていた……けれど、……可愛かった。い、今のおまえは全然可愛くない! 可愛くないぞ、ぜんっぜん可愛くない!!」  きーっと叫ぶ白百合の頬が、紅い。怒っているのか、なんなのか。見慣れぬ白百合の表情に、鈴懸も詠もぽかんと口をあけている。 「とっ……とにかく、帰るぞ、詠! こんなところで鬼なんかを侍らせて、その下劣な着物を着て、ぶらぶらと遊んでいるなんて許さない! そなたはこの世界の者ではないだろう、元の世界に帰るのだ!」 「……むりです」 「なぜだ! っていうか本当にそなたはここで何をしておる! まるで見張りのようなことをして――」 「……見張りをしているんです」 「は?」  なにやら必死に自分を連れ戻そうとしている白百合と、詠は目を合わせることができず。 ただ白百合の言葉に僅かに瞳を揺らめかせながら、ぼそりと呟いた。 「……今、この屋敷では……織さまと玉桂さまの婚儀が開かれています。私は……そこに邪魔者が入らないように、見張りをしているのです」 「はァ!? なぜそなたが玉桂の味方をしておるのだ!」 「……だって私……穢いですもの。玉桂さまは、そんな私を赦してくださるから。……だから、あの方のそばにいる」 「嘘をつけ! そんなこと、本当に望んでいるものか!」 「望んでいるわ! 私は、玉桂さまの命令を聞くのよ! だってそうしていれば、なにも苦しくないもの――」  叫んだ詠の言葉。それに、白百合は目を瞠る。  ああ、これは――彼女を何がなんでも連れ戻さなければいけない。そう、決意したのだ。  しかし――白百合は、そこから自分がどうするべきか、決めることができなかった。なぜ、自分が衝動的に詠を連れ戻したいと思ったのかもわからず、だからどう動くべきかもわからず――ただ、立ち尽くすことしかできない。 「……っていうか中で婚儀やってるってわかってるのにここで立ち止まってる暇ねえんだわ、俺」 「えっ」  そんな、沈黙の二人の間に、鈴懸が割って入る。呆然と白百合が固まっている中、鈴懸は一人前へ出て、覚を侍らせる詠に向かって歩いてゆく。    詠は、そうして鈴懸が向かってくるにも関わらず――何も、しなかった。鈴懸が婚儀の邪魔をするというのは明白なのに――動けない。 「……じゃ、俺はお先に。あとは二人でどうにかしていてくれ」 「……っ、」 ――殺れ。はやく、邪魔者を追い払わなければ。  詠は必死に頭の中で自分を奮い立たせたが――なぜか、体が動かない。  ……期待したのだ。このまま鈴懸を先に行かせれば――何かが変わるかもしれないと。自分でもよくわからない、そんな想いが、詠に制止をかけていた。 「……ほほう、鈴懸を止めなくてもいいのか? 詠」 「……う、るさい!」  白百合はそんな詠を見て、にたりと笑う。  この娘、堕ちたわけではない。ひたすらに巨大な鬼を侍らせてはいるが――心を失ったわけではない。  白百合は詠を横切って先へ進む鈴懸を目で追いながら、さてどうやってこの娘を連れ戻そうかと考える。……ただ、答えはわりとすぐにでてきて。 「知っておるぞ、その鬼。人間の心の闇を餌に肥える、寄生型の妖だろう。そいつを貴様から引き剥がしてやろう。貴様にその華美な着物は似合わないぞ、詠! 今のおまえは恐ろしくブサイクだ!」 「……ふん、震えながらよくそんな虚勢をはれますこと。自分自身の闇も拭えない貴女が、私の覚をどうするというのです――!」  覚を、詠から切り離す。  それが、詠を救う方法である。  その答えにたどり着いた白百合は、震える自らの体を押さえつける。そう、詠の言うとおり――白百合は、自分自身のなかにある闇すらも、拭うことができていない。下手をすれば、覚にのっとられてしまう可能性だってある。それでも――彼女を救えるのは自分だけ。なぜ彼女を救うのか、そんな自問自答は後回しだ。救いたいと、理由もなく湧き上がる衝動に、従うのみ。

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