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覚の章26

「――ひゃっ!」  覚が、吠える。そのけたたましい声に、白百合は耳を塞いだ。詠の覚は、白百合が今まで見たどの覚よりも、大きい。ただひとつの遠吠えさえも、白百合の体に大きな負荷をかけるほど。  詠は、覚の遠吠えで動けなくなっている白百合を見て、安心したようにため息をついている。覚に命令を出しているのは、詠自身。もしもこの遠吠えが白百合にまったく効果がないというのなら、今度は覚にそれ以上の攻撃をさせねばならない。詠は、それを疎んでいたのだ。 「う、うるさいぞ、詠! 覚を止めないか!」 「止めろと言われて誰が止めるものですか……!」 「このっ……生意気な……! 所詮覚に寄生されただけのくせにいい気になりよって!」  白百合はそんな詠を見て、心底腹がたった。  何を意地になってこの世界に留まろうとするのか、と。  詠は、たしかに「純粋」とは言い難い人間である。人間らしい扱いを受けなかった過去から生じた、唯一自分を認めてくれた碓氷家の人間に対して持った強烈な承認欲求、そして哀れな人生を送る織への優越感。自分を認めて欲しいがあまりに純粋な優しさを失ってしまったのである。  詠は、それをようやく認めて、そして故に自分を醜いと卑下し始めた。しかし――そんなもの、白百合からすれば月の世界へ留まる理由になどなりえないというもの。だって、その醜さこそが人間だと思っているから。その醜さと向き合っているようで逃げ出してしまったから、詠は覚に寄生されてしまったのだ。 「……詠」  白百合はじろりと詠をにらみつける。  白百合は、詠を初めてみたときから、詠のなかで蠢いている闇に気付いていた。詠が、それとずっとずっと、戦っていたことも。自分のなかにある醜さに気付き、それが悪しきものであると理解し、ひたむきに隠し通そうとしていたこと。隠しても隠しても沸き上がってくる醜い感情に、幾度も苦しんでいたこと。苦しんで苦しんで……それでも、自分に優しくしてくれた織のために、醜さを押し殺していたこと。  白百合は、そんな風に必死にあがいている詠を好いていた。はじめこそ、ただ愉悦に感じておもちゃとしてしかみていなかったかもしれない。けれど、その健気さは……嫌いじゃなかった。もう少しだけ、見守っていたいと思っていた。 ……それなのに。 「……貴様には心底がっかりだ。人間であることを放棄するつもりか。そんな鬼などを従えて、いい気になるなよ小娘! 妾が痛い目を見せてやる!」 「えっ……」  詠は、白百合に指摘された瞬間に、戦うことを諦めた。他人に見つかってしまったからと、もう隠す必要なんてないと……自らの醜さと戦うのをやめてしまったらしい。  非常に、つまらなかった。つまらない。もうちょっと、見ていたかったのに。  だから――白百合は月の世界でこうして覚を従えている詠に、苛立ちを覚えたのだ。せっかくみつけた楽しみが、奪われてしまったから。詠を見ているときは、ちょっとだけ、楽しかったのに、と。 「……っ、白百合さま……貴女は、邪神でしょう……!? 妖力を使えば……さらに、鬼に近づきますよ……! ここで、力を使うというのですか! さっさと帰ってください、私のことは放っておいて!」 「黙れ詠! おまえのためなどではない! おまえに指図される理由などない! 妾はただ、妾の期待を裏切った貴様に仕置きをしてやるだけだ!」 「し、白百合さま、……」  このまま、詠を月の世界になどいさせない。  白百合の怒りが形になったように、白百合の周囲に黒い狐火が出現する。詠の言ったとおり、邪神は力を使えば使うほどに鬼へと近づき――心を失ってゆく。もちろん、白百合はそれを知っている。知っているが――ここで、逃げ帰るつもりは毛頭なかった。 「やってみるか、詠。貴様の闇とやらと、妾の怒り。どちらが強いか、今ここで証明してやろう」

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