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覚の章34(5)

* 「……玉桂さま……どうされましたか……?」  今、目の前に居る織を見て。玉桂は黙り込んでしまった。    かつて愛した咲耶と、同じ魂を持つ者。きっと織も彼女と同じ運命を辿るだろうと、そして人間から離れて全てを忘れて生きた方が幸せだろうと、そう疑わなかった。織も、心の奥底で世界を憎み、人間を呪っているのだと、そう思っていた。  しかし。  織は言った。「この世界で生きたい」のだと。まっすぐな目で、言ったのだ。 「……織よ」 「……、はい」 「……キミに、この世界はどう見える」 「え……」  玉桂は問うた。織の瞳にめがけて。  愛していた咲耶。彼女は美しかった。何よりも可愛かった。けれど、本当の笑顔を見せてくれたことがただの一度もなかった。彼女を我が物にすることで心は満たされたような錯覚に陥ったが、どこか寂しかったのは彼女が笑ってくれなかったからだろう。  玉桂は、彼女の哀しい瞳を思いだし、そしてそれを織に重ねてみる。 「……私にこの世界は――」 「……」 「――恐ろしく、見えます」  違う心を持ちながらも、同じ魂を持つ織。彼が、もしも。彼女の叶わなかった願いを叶えたなら――…… 「……けれど、」 ――咲耶は、救われるのだろうか。 「……信じています。どんなに暗くても、なにも見えなくても、……それは私が下を向いているだけ。今の私には、手を引いてくれる人がいる。いつか私は、上を向く勇気を手に入れる。この世界はまぶしいと知ることができる日を――私は、この人の隣で信じ続けています」  玉桂に、その答えはわからなかった。  しかし。  この織という青年が、鈴懸の隣で笑う未来を、どこかに見ることができた。それは玉桂の望んだ咲耶の笑顔のような、まぶしい笑顔。 「……織。憎たらしい奴め」 「えっ……」 「どうしても、鈴懸のことが愛しいというのか」  玉桂が織にすうっと近づく。玉桂の長い黒髪が織の顔に陰を作り、とじこめた。ぽかんとして見上げる織の頬に――玉桂が触れるだけの、口づけをする。 「……私は月の神。天上より、キミのことを見ておるぞ。もしも鈴懸の隣で一度でも泣くことがあったなら……再び、攫いに来るとしよう」 「玉桂、さま」 「私のもとから離れるならば、誓うがいい。その男と、幸せになれ」  玉桂が立ち上がり、踵を返す。玉桂が歩み始めると、床に散らばった花びらがふわりと舞い上がった。ゆらりゆらりと揺れる玉桂の髪の毛に付き従うようにして、桜の花びらが踊っている。  黄金の部屋から去っていこうとする玉桂。織が呼び止めようと口を開いた瞬間、鈴懸が一瞬先を越して叫ぶ。 「――玉桂様」  はっとして目を見開く織の横で、鈴懸はひざまずく。そして、頭を下げて、言うのだった。 「必ず、私が織を幸せにしてみせます」  玉桂は、振り返らない。優雅に髪の毛を揺らしながら、そのまま消えてしまった。鈴懸は、玉桂が部屋を出ていくまでずっと額を床にすり付けたままであった。

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