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覚の章36

***  静かな、月の夜。宴の幻が残る屋敷の片隅で、玉桂は夜空を眺めていた。片手のお猪口に揺れる酒の水面に、満月を閉じ込めて。  傍に、ひとつのかざぐるま。 『玉桂さま。どうぞ、受け取ってくださいな』  玉桂は夜風にからからと回るかざぐるまを横目に、記憶を辿っていた。愛しき女・咲耶。このかざぐるまは、咲耶が玉桂に贈ったものである。 『私の想いのこもったかざぐるまです。どうか、持っていてください』 『ほう、これは今生の宝となるなぁ』 『ふふ……でも、このかざぐるま。貴方のなかの私への想いが消えてしまうと、一緒に消えてしまうの』 『消えてしまうなど……』  かざぐるまは、一生消えないだろうと思っていた。あの女のことを忘れることなど、ないと。 ーーしかし。  今。かざぐるまが、すうっと……闇に溶けるようにして消えてゆく。玉桂はそれを黙って見つめていた。 「キミは……どこまでも、哀しい女だ」  そんなかざぐるまを見て、玉桂は微笑む。  咲耶への『想い』という名の、執心。咲耶という女に囚われてしまった悲しき心が、かざぐるまをこの世に縛り付ける。玉桂のかざぐるまをこの世に留めていたのは、玉桂のなかにあった咲耶への未練。一度たりとも彼女の笑顔を見ることができなかったという、玉桂のなかにあった気付かぬ悲しみによるものだった。  しかし。咲耶の生まれ変わりである織が、現れた。彼の幸福を導く者が、彼の隣に居た。咲耶の魂の救済の予感を感じ取った今、玉桂のかざぐるまは役目を果たしたのである。 「私は……キミのことを救いたかったのだろうか。なあ……咲耶。織の幸せを祈る今、私のなかにあった後悔が救われてゆく気がしたのだ」  玉桂は織のことを思い浮かべて、ほくそ笑む。美しく、淫らな織。できることならこの手であの可憐な青年を咲かせてあげたかったが、鈴懸のそばにいた織の瞳には、幸せな未来が見えていた。織を手放すのは少々残念ではあったが、彼の幸せを見た今、心の中にずっと居た咲耶の救済が叶わなかったという後悔が薄れてゆくような気がした。 「さて……織に救われたのは、キミか、私か」  完全にかざぐるまが消えた、闇を見て。玉桂が満足そうに笑う。  月の浮かぶお猪口を口につけると、そのままくいっと傾けて、酒を飲み干した。 覚の章 了

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