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千歳の章1

 それはすがすがしく晴れた、透明な朝のことだった。  碓氷家の屋敷の廊下で、掃除の手伝いをしていた詠を見かけた白百合が、訝しげな顔をして彼女に話しかける。詠はなにやら機嫌がいいのかなんなのか、ひとりでにやにやとしていて端からみればおかしな様子であった。 「ふふ……私、見てしまったのです」 「なにを?」 「甲斐甲斐しく織さまのお世話をしている、鈴懸さまです。ああ……なんて素敵なんでしょう。みているこっちがどきどきしてしまいました」 「……?」 「鈴懸さま、ベッドの傍らに座って、ずっと織さまの手を握って……優しい声で、織さまに話しかけているのです。ああ、もう……胸やけがするくらいに甘くて、恥ずかしくて見ていられないんですけど……思い出すとにやけてしまいますねえ」  ――月の世界から帰ってきた、4人。皆、体に異常はなく、いつもの平和な日常が訪れていた。こちらの世界の人間から消えていた織と詠の記憶も、無事戻ってきたようである。碓氷家のものたちは何事もなかったかのように、織たちに接していた。  そんななか、織だけが少々いつも通りの生活が送れないでいた。体に異常自体はなかったのもの、月の世界で毎日のように抱かれ続けていたため、体力が限界まですり減っていたのだ。織はこちらの世界に帰ってくるなり、糸が切れたようにほぼ寝たきりの生活を送っていたのである。  そんな織の世話をしていたのが、鈴懸である。織の親や、碓氷家の使用人が世話をするといっても聞かず、鈴懸が付きっきりで織の世話をしていた。詠は、そんな鈴懸をちらりと見てしまったらしい。 「織さまも……すごいんですよ。恥ずかしそうに顔を真っ赤にして……とても可愛らしいのです。あんな織さまを見たのは初めてです。なんだか感慨深いですわ」 「ほう。あの二人のいちゃいちゃにおまえも嬉しくなっちゃったというわけだな。どうするんだろうなぁ、鈴懸が神だから二人が結婚すれば織もややこを産めるのだが」 「それはもう……幸せな家族になってほしいです! 結婚するに決まってます」  詠の話を聞けば、白百合も釣られたようにして顔をニヤつかせる。 「ああー……いいなぁ。私も恋をしてみたいです」  少女二人、廊下で恋の話に花を咲かせる。きゃいきゃいと楽しそうに話していたのが耳に入ったのか、二人に近づいてきた男が一人。 「どうした、詠ちゃん。いい人でも見つかった?」 「あっ……伊知さま」  織の兄・伊知だ。落ち着いたブラウンのスーツにハットを被って、どうやら彼はいつものように出掛ける様子。穏和な笑顔を浮かべる伊知に、詠はにこにことして答えた。 「いいえ、伊知さま。私ではなく、織さまです。織さまが素敵な恋をしていらっしゃるので」 「織が?」  伊知は詠の言葉を聞くなり、きょとんとして目を瞬かせた。そして、一瞬の間をおいて、 「……そっか」  と小さく言った。 「……?」  その伊知の表情が、あまり浮かないものであったから。詠はどうしたのだろうと首を傾げる。  しかし、伊知はまたすぐににこやかに笑うと、詠の頭をぽんぽんと叩いて優しく言った。 「……詠ちゃんも、いい人を見つけるといい。女の子は恋をすると美しくなれるから」 「……、はい。ありがとうございます!」 詠の境遇を知っている伊知にそう言ってもらえて素直に嬉しかった詠は、照れたように微笑んだ。 ひらひらと手を振りながらまた去っていく彼の姿を、白百合は黙って見つめていた。

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