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千歳の章19
有栖川と碓氷は、織と暦のお見合いをきっかけに、さらに親交を深めていた。以前よりも会合を開く機会が増え、暦が碓氷家を訪れる機会も多くなってきた。
ある日、暦が碓氷家を訪れた時のことである。当主同士の話し合いの間、暇を持て余した暦は、碓氷家の屋敷の中を散策することにした。特に目的はなかったが、一人になりたかったのである。
「……あら」
暦が廊下を歩いていると。前方から、着物を着た少女が歩いてくる。
この屋敷にいる女性は、基本的にメイド服を着用しているため……少女のような、着物姿は珍しい。しかも、その着物は少女が着るには地味すぎていて、碓氷家の屋敷を歩くには酷く不釣り合いのものであった。
彼女が気になった暦は、彼女とすれ違いざまに、彼女に声をかける。彼女はびっくりしたように大きな目を瞬かせ……そして、ハッと目を見開いた。
「暦さま……でございますよね。どうぞ、ごゆっくり――」
「貴女、なあに?」
「えっ?」
「メイドじゃないわよね。碓氷家の人間ってわけでもなさそう。貴女、だあれ?」
有栖川の人間に声をかけられたことに驚く少女は、問を投げかけられてぎょっとしたような顔をした。暦はそんな彼女をおかしく思ったが、同時に親近感も覚えていた。彼女は今までなかなか触れ合う機会のなかった、同年代の少女だ。ころころと表情を変えるあたりも年相応といった風で、暦はますます彼女のことが気になってしまう。
少女は、暦の問にどう答えようか迷っているらしい。うーん、とうなったあと、照れたように顔を赤くして言う。
「私……詠、と申します。メイドではないのですが、織さまの身の回りの世話をさせていただいております」
「詠っていうのね。こんなところで何をしているの?」
「いえ……外へ行こうと思って。落ち葉がたくさんあるから、掃き掃除をしないといけないのです」
「なるほど。一緒にいってもいいかしら?」
「ええっ……!? か、構いませんが……」
少女――詠は、まさか自分が有栖川の娘と会話を交わすことになるとは夢にも思っていなかったらしく、そわそわとしだしてしまった。暦はそんな彼女をみてクスクスと笑いながら、一緒に庭へ出ていく。
詠が向かった先は、美しい薔薇園でもなく噴水でもなく、敷地の隅にある大木のもとであった。真っ先にここへ向かってきた詠を、暦は不思議そうに見つめている。
「もっと綺麗にすべきところがあるんじゃないの?」
「そういうところは、他の方がやってくださいます。私は、この……時々鈴懸さまの寝床になっている木を綺麗にしておかなければ」
「……鈴懸さま?」
「織さまに憑いている竜神さまです」
「……碓氷家にも神様がいたの!?」
「鈴懸さまは、古い神社から織さまがお連れした神様です。碓氷家の神様ではありません。碓氷家には白百合さまというお狐様がいまして……」
暦は、鈴懸の話に強い興味をもったようである。ぐいぐいと食いついてくるものだから、詠もたじたじになってしまっていた。
「織さまは、その神様とどういった関係なのでしょう? もしかして、恋仲?」
「えっ、いやっ、えっと」
「織さま、とても独特な雰囲気を持っているの。清らかなのに、吸い込まれるような色香があって。神様に見初められているんじゃないかなって、少し考えたこともあったのよ」
「……、」
いつの間にか詠は大木の幹へ追いつめられていて、逃げられなくなってしまっていた。暦にぐっと迫られて、まさか彼女を突き飛ばすわけにもいかず、息を詰めてされるがままになるしかない。暦は、上流階級の娘であるからだろうか、恐ろしいまでにいい匂いがして、距離を詰められるとくらくらとしてきてしまう。
詠は至近距離で暦に見つめられながら、織と鈴懸の関係についてどう話そうかと迷っていた。二人の関係は間違いなく恋人であり、深い関係であるのだが……織の見合い相手である暦にそれを言っていいのだろうか。たかが世話役の自分が、織の情報を彼女に流す権限はない、そう考えていた。
しかし、詠が黙っていれば、暦はますます詠に迫ってくる。ぱし、と両手を詠の脇について、ふふ、と優雅に微笑むと、すっと詠の耳元にふっくらと艶やかな唇を寄せた。
「織さま、神様に抱かれているのでしょう。あの方から感じる匂いは、男を知っている匂いですわ」
「……っ、あの、……暦、さま……」
「貴女も、知っているでしょう……? 男に抱かれると、ふとした瞬間に体の奥が熱くなるの。織さまは、それを知っている匂いがしたわ」
暦の言葉にかあっと顔を赤らめる詠。暦の声はしっとりと艶っぽく、鼓膜の奥がゾクゾクと震えてしまう。暦は固まっている詠を見つめると、にっと笑って詠の頬に手を添え……囁く。
「可愛いのね、詠」
かつ。持っていた箒を、手放してしまう。詠は頭が真っ白になって、ただただ暦の大きな瞳に見つめられるのが怖くて、ぎゅっと目を閉じていることしかできなかった。
「そ、そこで何をしている娘―!」
今にも、詠が喰われそうだというときだ。ガサッと音がして、物陰から白百合が飛び出してくる。突然の白百合の登場にびっくりした二人が目を丸くしていると、白百合は二人の間にぐいぐいと入ってきて、どんっと暦を突き飛ばした。
「わ、妾の許可なく詠に手を出すな!」
「……どちらさま?」
「白百合だ! 碓氷に住まう神だぞ!」
「……さっき詠が言っていた御狐様? なあに、随分と愛らしい見た目だこと」
「バカにしているのか貴様!」
きゃんきゃんと喚く白百合を見て、暦がふっと吹き出す。その顔には蔑みの色はなくて、単純に白百合の言動が暦にとって面白いものだっただけらしい。ひとしきりクスクスと笑った後、ふうと落ちついた様子でまた優雅に微笑みを向けてくる。
「ふふ、ねえ、白百合さま。どうして詠に手を出してはいけないの?」
「どうしてって……き、貴様! やっぱり詠に手を出すつもりだったのか!」
「ええ、どうしてそんなに怒っているの? とっても可愛らしいから、ちょっとイタズラしようとしただけよ」
「馬鹿か貴様! 詠は! 純情な乙女なのだぞ! 貴様のような破廉恥女とは違うのだ!」
「ふ、あはっ、破廉恥って。可愛いものをいじめたくなっただけじゃない。私、おかしなことなんてしてないわ」
堂々と、とんでもないことを口にする暦。詠も白百合も、彼女のあまりの自由さに目を丸くしてしまう。大財閥の娘が、なんてことを言っているのだろうか、と。
唖然としている二人に、暦はふんと鼻を鳴らす。そして、長くさらさらとした髪の毛をかきあげると、艶めかしく目を細めて笑うのだった。
「女は貞淑に、純情に。男はみんなそう言うけれど、そんなのダメよ。楽しくないじゃない。目の前に楽しそうなものがあったら、飛びつかなくちゃ。それができない人生なんて、つまらない」
「……暦さま」
「純情なんて捨てておしまい、詠。私とイイコトする気になったら、言ってね。手取り足取り、教えてあげるわ」
きっと、自由のない人生を送っているだろう、暦。そんな彼女から発せられる言葉は、妙に重々しい。常軌を逸した彼女の発言は、彼女のなかの何が生み出しているのだろう。彼女は高らかに笑っているが、楽しそうには見えなかった。
威嚇するようにしっぽの毛をを逆立てる白百合に、暦は諦めたように溜息をつく。今日はもう、詠に迫る気がなくなってしまったらしい。にこりと人形のような笑顔を二人に向けると、踵を返して去っていってしまった。
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