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千歳の章23

「織さま、貴方は、もう、貴方の恋を諦めているの?」 「……」  雨に濡れてしまって、二人は小さな喫茶に入った。時間を考えれば、ここが今日の最後に立ち寄るところになるだろう。  暦は少し冷静になったのか、ぼんやりと窓を眺めながら静かな口調で織に話しかけてくる。織の前で泣いてしまったのが恥ずかしいのか、目を合わせようとはしてこない。 「……諦めるもなにも、どうしようもないじゃないですか」 「どうしようもないなんて、そんなことわからないじゃない」 「えっ……だって、俺は、」 「だって貴方は、一度は碓氷家の責任を放棄しているでしょう。今更、そうやって意固地になって責任を果たす必要はないんじゃないの?」 「……」  先ほどのことがあってか、暦は少々いじわるだ。織も、まるで責任逃れをしようとしているといった言われ方をされては納得がいかない。  むっとしている織を見て、暦がフッと笑う。頬杖をついて窓から待ちゆく人々を眺めては、はあとため息をついていた。 「ごめんなさいね、ちょっと私、貴方に嫉妬しているのよ。貴方はね、結婚を断れる立場にあるの。私と違って」 「……そんな立場に立った覚えはないんですけど……」 「だって織さまは、今まで碓氷のために生きてきたわけじゃないんでしょう? ここで結婚を拒絶して、碓氷家の責任を放棄したところで、貴方の人生を台無しにするなんてことはないわ。碓氷家の人たちにどんな目で見られるかなんては知らないけどね」 「……暦さんは違うんですか?」 「言ったでしょう。私は、今までずっと有栖川家のために生きてきたの。途中でちょっと嫌になって刺激を求めたこともあったけどね。でも、今までの人生をずっと有栖川家にささげてきたから、ここで有栖川の娘としての責任を放棄したら……今までの私を、馬鹿にすることになるわ」  ……詠に手を出したのは、まさか、刺激が欲しかったからか。  織はぽろりと暦の口から出た言葉に苦笑いをしてしまう。おかしなことではないだろう。品行方正を強いられすぎて、羽目を外したくなるお嬢様。文学なんかにもたびたびでてくる構図だ。   まあ、そこは問題ではない。彼女が言いたいのは、今回の結婚を拒否することは、有栖川家や碓氷家の跡取りとしての責任から逃げることになるからいけないのではなくて、今までの人生を否定することになるからいけないのだということだ。織は今まで、彼女は「有栖川の責任を果たすために結婚を断ろうとしない」のだと思い込んでいたため、少しばかり驚いてしまう。 「わかる? 青春は全て、有栖川家のために注いだわ。遊べないし、勉強させられてばっかり。だから心から話せる友だちなんていないし、思いっきり遊んだこともない。そんなにがんばってきたんだから、その苦労が意味があったものだと自分を納得させたい」 「……でも、暦さんは、これからのほうが長くないですか? これから人生を変えようとしても遅くないと思います」 「……男って単純馬鹿ね。大事な青春時代よ!? 一番重みのある時期だわ! 一番恋をしてはしゃぎたい時期を、私は奪われてるの! たとえこれからの大人の人生で、好きな人と一緒になれたからといって……」 「……俺は、幸せだと思いますよ。俺だって、……そりゃあ暦さんとは状況が違いますけど、ろくでもない青春時代を過ごしてきましたし。鈴懸さまと出逢ってからは、世界が変わったようだった。今までの不幸も、あの方に出逢うためのものだったんだと思うと愛おしく思えました」 「……。ふん、それはいいこと」  暦は、織の言葉を聞いているうちに少しずつ言葉数が減っていった。千歳と結ばれたときのことでも考えているのだろうか。時折考えこむように黙りこみ、そして何を想像したのか頬を赤らめたりして、落ち着かない。  織はかえって良からぬことを言ってしまったような気がして、しまった、と思う。これではまるで、有栖川家の長女としての責任を放棄してしまえと助長するようだ。それぞれの家の事情があるのだから、軽率にそんな発言をしてはいけないと、織は自分の言動を省みる。 「まあ、そんなのはくだらない夢物語ね。私は、無理。私は有栖川の女で一番美人だから、がんばっていいところに嫁がないといけないの。有栖川家のためにね」 「そ、そうですか」 「でも、いいんじゃない。貴方は……まだ、自分の人生を自分で決めることができるんですから。自分がどうしたいのか、自分に聞いてみるといいわ。まあ、私みたいな美人を逃したくないなら、早く私との結婚を決めることね」  暦が、吹っ切れたように笑う。  織は、少し自分が恥ずかしくなった。暦は、自分とほぼ変わらない歳なのに、自分よりもずっと責任をもっている。けれど……苦しそうだな、とも思った。彼女は一生有栖川という檻から逃れることができないのだと思うと、哀しくなった。  では、自分はどうなんだろう。彼女の言うとおり、碓氷家という檻から逃れることは、不可能ではないのだ。もちろんそれには、碓氷家の息子としての責任を逃れるという罪を背負うことにはなる。そして、暦にとって失礼になるんじゃないか……そう思う。  しかし、迷う織を、暦がじとっと睨む。織がその視線にたじろいでいれば、暦は呆れたように言った。 「駆け落ち、してみれば? 碓氷家の男としては恥となるかもしれないけれど、ただの男としてはなかなかにかっこいいわよ。私は、囚われたままの男よりも、這いつくばっても逃げる男が好き」 「……這いつくばって逃げる男ですか」 「ふふ、無様に生きなさい。男だもの、多少醜くてもいいと思うわ」  にやりと笑う彼女の顔は、なかなかに邪悪。これはこの女、なかなかに真っ黒な性格をしていそうである。  しかし、そんな暦の表情に、織は少し安心した。先ほどの泣き顔と比べれば、だいぶ元気になったように見える。  彼女にとって、有栖川家の使命を果たすことは、苦しみであり、同時に彼女の誇りなのだ。それを全て織に理解することはできなかったが、もしもここで有栖川家から彼女が逃げて、誰かと駆け落ちしたとしても――彼女は、自分の人生に納得がいかないだろう。  ――では、自分の誇りとは、なんだろう。彼女は、自分の誇りを守るために有栖川の女になる。では、自分の誇りを守るために選ぶ行動は、一体……  織は考え、そして、塞ぎこむ。そう簡単にでてくる答えではない。しかし、その答えはきっと、暦の言うように無様に生きる道になるだろう――そんな予感はしていた。

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