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千歳の章28
「――織。どうした、元気ないみたいだけど」
緊張しっぱなしで朝食をとった織。大広間を出た織に声をかけてきたのは、伊知だった。
「全然食事進んでなかったじゃないか。何かあったのか?」
「あ、……いや」
今日の夜、両親に全てを話そう――そう考えていた織は、なかなか食事に手がつかなかった。いつもよりもやたらと遅く箸を進める織を、伊知は不思議に思ったらしい。
「悩みがあるなら、相談に乗るぞ」
「……、」
伊知は優しく笑って、織に話しかける。しかし織は――そんな伊知と、目が合わせられなかった。
その理由は――伊知に、許嫁がいるからである。伊知には、綾小路家という有栖川家と並ぶ大財閥の娘が、許嫁にいる。それは伊知がずっと幼いころから決められていたものらしく、ほぼ伊知の意思は汲まれていないらしい。まだ結婚はしていないのだが、伊知には自由な恋愛は許されていない。
織は、そんな伊知に、自分の想いを話すのをためらってしまったのだ。自分とは違って、碓氷家の命を果たす伊知。きっと、不自由な想いをいっぱいしているだろう。そんな彼に、自分のわがままとも言えるこの想いを話すことが、できなかった。
「……そうだ、織。有栖川の令嬢とは上手くいってるのか」
「……!」
しかし、伊知はそんな織の心の中を読んだように、一番聞かれたくないことを尋ねてきた。思わず織がぎょっと目を見開けば、伊知がぷっと吹き出す。
「あそこの娘は、やたらと気が強いだろう。織とは相性が悪いかもなあ」
「えっ、いや、暦さんはいい人なんだけど、」
「なんだけど?」
「えっ……えーと、……」
言葉に詰まる織を見て、伊知が目を細める。もう、織の抱えているものはほとんどわかっているのだろう。それを、自分の意思で吐き出すのを、待っている。伊知の瞳には、そんな兄としての優しさが浮かんでいた。
織は伊知の視線に、ふい、と俯いてしまう。「暦と相性が悪そうだ」と言ってきた時点で、伊知はもう、織が結婚を拒んでいることを察しているのだろう。もはや隠すことはできないのだが……どう切り出したらいいのかわからない。織は悩み、そして……ちら、と伊知を見上げて呟く。
「……兄さんは、……その、……綾小路の方とどうなってるの?」
「俺?」
織の問に、伊知は小首をかしげた。そして、「うーん」と唸りながら顎に手を添える。
「知らん。っていうかどんな顔してるのかもよくわからない」
「えっ? 会ったことないの?」
「いや、大昔に会ったことはあるんだけど……大人になってからは会ってないからなあ。噂ではすこぶる美人になったらしい。まあ、どうでもいいけどね」
「……顔も知らない人と結婚が決まっているのって、……嫌だとか、思わない?」
織は伊知から帰ってきた答えに、ぎょっとした。もしかしたら、自分よりも辛い状況ではないか――そう思ったのだ。
織はある程度、暦の為人を知っている。だから、もしも彼女と結婚するとなったとして、その結婚は彼女と夫婦になるということを意味するだろう。しかし――伊知の場合。顔も知らない、性格も知らない、そんな相手と結婚する。その結婚は正真正銘の政略結婚であり、両家の発展の道標となることを意味する。あまりにも――体温のない、そんな未来が彼を待っている。
伊知は、辛くないのだろうか。彼の心情を知りたくて、織が淋しげな視線を彼に送れば――伊知は、ふっと草臥れたように笑って煙草を咥え、火をつける。
「別に。俺は、恋愛はしないことにしたんだ。結婚に夢なんて見てないさ。綾小路のお嬢がとんでもない醜女だったり悪女だったりしなければいいなとかは思うけどな、はは」
「恋愛はしないって……」
「自分の人生を碓氷家に捧げよう、そう決めたんだ。おまえが思っているほど、それはつまんねえことじゃないぞ。俺たちが生きるのは、賭けの世界。ほんの少しの間違いが、碓氷家の大暴落に繋がる。悪く無いだろう、リスキーで刺激的な世界ってのもさ。俺は碓氷家の家紋を背負って、日本国の経済界を震撼させてやるのさ」
「……」
ふう、と伊知が煙を吐く。
織は、ますます自分のことを言い出しづらくなってしまう。伊知は、あまりにも織とは対象的であった。
鈴懸に恋をしたことは、織のなかの誇りだった。けれど、碓氷家の長男として生きようとする伊知を、織は眩しく思った。鈴懸との恋は自分のなかのなによりの正義であったはずなのに、それが揺らいでしまうほどに。
黙りこんでしまう、織。そんな織に、伊知が微笑みかける。
「……俺は、自分はなんでもできると思っていた。自慢じゃねえが学校では成績は一番だし、ついでに女性にもモテた。経済界でも俺の名前は知れ渡っている。俺は、自分がかっこいいと思っていたんだ、この世界の誰よりも」
「……」
「……そんな俺が、俺ってすげえカッコ悪いじゃんって思った時がある。……いつだと思う?」
「え……わ、わかんない」
「――恋を、しちまったとき」
はは、と伊知が笑う。織は思わずその横顔に――見惚れてしまった。
「恋愛はするつもりがなかったんだけどな。いや、っていうかこの話、誰にも言うなよ? 浮気になる。……俺さ、一回だけ、恋をしたことがあるんだ」
「……好きになった人が、」
「ああ。一目惚れだった。初めて会ったとき――あの子は、絶望しか知らないって顔してたかな。吉原に売っぱらわれそうになってたんだよ。俺は親父の命令でその子を迎えに行ったわけだけど……ああ、なんていうのかな、本当に綺麗だった。あんな場所で、あんなにぼろぼろの着物を着て、暗い顔をして……それなのに、俺はその子を本当に美しいと思った」
「……、」
「いやあ、許嫁いるしさ、駄目だとは思ったんだよ。でも、花束くらいはあげてみたいって思ったんだ。女性はきっと、花束をあげたら嬉しいんじゃないかって、言ってみれば上から目線で彼女を喜ばせようとしたんだ。その時、俺は俺の中で世界一かっこいい男だったからな。けれど――いざ、彼女に花束をあげようと思ったら、足が動かなかった。せっかく、馬鹿でかい花束を買ってきたのに――彼女に差し出すことは愚か、彼女の前に出ることもできなかった。どうやって花束を渡そうかと思うと、いつもは賢いはずの俺の頭が真っ白になる。キザな言葉を言おうとすれば、声が震える。俺、思ったんだよね。すっげえ、今の俺、カッコ悪いって」
――伊知は、要領のいい人間だ。人付き合いが上手く、器量が良い。なんでもそつなくこなし、誰からも好かれる。昔、織はそんな伊知を疎んでいた。あまりにも自分と違う彼に、嫉妬していたのである。
嫉妬するということは――憧れるということ。自分にないものを持っている伊知をみて、織は苦しんでいたのだ。織はそれほどに、伊知に無意識の憧れを抱いていたのである。
だから、織は伊知の話に驚いた。伊知のような人間が、一人の女の前では情けない男になってしまうということに。
「……織、おまえさ。好きな人いるだろう」
「……え」
「詠ちゃんがなあ、言ってた。最近の織は本当に素敵だって。恋をしてからの織は、見ていて眩しいって。彼女、言ってたぞ」
「よ、詠……」
伊知は灰皿に吸い殻をしまうと、くしゃりと織の頭を撫でた。どこまでも見透かされて恥ずかしく思った織は、その伊知の手のひらのぬくもりに、かあっと顔を赤らめる。
「……あの子に眩しいって思われるくらい、今のおまえは魅力的なんだ。俺はな、おまえが本当にすごいと思う。そんな眩しい恋は、俺はできなかったからさ。だからさ、織。俺が言いたいのはな」
「……兄さん、」
「……自分の選ぶ道に、誇りを持て。周りから何を言われようが、おまえの恋はおまえにとって誇るべきものだと、自信を持って言うといい」
ふ、と微笑んだ伊知。織はそれを見上げて、きゅ、と口を噤んだ。――泣きそうになったからだ。
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