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千歳の章31

「千歳に抱かれているとき、おまえ、何を考えていた」  シャツに手を通す織の背中を、鈴懸はベッドに寝転がりながら見ていた。  千歳が去ってからしばらくして、織は目を覚ました。もうすっかり、夕刻も近づいている。有栖川との縁談を断る旨を両親に伝えようと決めていたのは、夜。いつの間にかその時間に近づいてしまっていたが、目を覚ました織が焦ることはなかった。冷静にベッドから体を起こし、着替えを始めたのだ。 「……今回のは、いつもと違くて。少し意識があったんだけど……」 「うん」 「なんか……哀しいなあって。そんなことを思っていた」 「哀しい?」  糊のきいた白いシャツに身を包んだ織は、つい先刻まで二人の神の前で淫らな姿をさらけ出したとは思えないくらいに、清廉としていた。鈴懸はそんな織を見つめ、改めて思う。織は、妖たちの救済に嫌悪感を覚えていない。織が淫らなことを好まない性分であるのに儀式を疎うことがないのは、妖たちの心に直に触れてその哀しみを知っているからだ。  ――変わっている。鈴懸はそう思う。織は特別正義感が強いわけでもなく、飛び秀でて優しいわけでもない。それなのに、儀式にはどちらかといえば積極的だ。自らの体にかかる咲耶の呪いを解きたいという想いもあるのだろうが、それ以上に妖たちへの救済を願っているようにも思える。  きっと、そういうところが妖怪や神々を惹き寄せてしまうのだ。本人の自覚のない、無尽蔵の慈愛。透明なほどの純粋。恐ろしいほどの淫らさのなかにある、織のそういった美しい魂が、妖たちを魅了する。 「いつも、儀式の時には、言い様がない不安感に襲われるんだ。愛されたくて愛されたくて仕方ない、そんな不安感。今日の俺は……それを抱えながら、自分の意思を持って、千歳様さまに抱かれた。……ものすごく……苦しかった」 「……咲耶の念と自分の意思の両方を持って抱かれることが、そんなに苦しいのか?」 「……うん。咲耶さんは、きっと……愛してくれるなら、誰でも良かった。とにかく寂しい心を埋めるために、たくさんの愛を欲しがっていた。だから、たくさんの妖怪から受ける愛を、別け隔てなく飲み込んでいた。……そんな、底なし沼のような咲耶さんの心に、千歳さまの真っ直ぐな想いが呑み込まれていく。千歳さまは、咲耶さんを、……俺を、好きだって言っているのに。咲耶さんの念は、ただ、千歳さまの想いを「たくさんの愛」としてしか見ていない。今日、俺はそれを見てしまった」 「……、」 「――咲耶さんは、たくさんの妖怪に愛されたかもしれない。けれど、……それは何も咲耶さんを満たしていない。俺は、それを、知っちゃった。……虚しかった。咲耶さんと妖の交わりは、誰も救えていなかったんだって気付いたから」 「……でも、この儀式は確かに呪いを解いているじゃないか」 「呪いを解くことは、妖を救っているとは限らないと思う。この儀式は妖怪を救っているんじゃない……ただ、過去をなかったことにしているだけ。妖が咲耶さんと出逢ったという運命をなかったことにしただけだ。妖にとって、足し算されたわけでも引き算されたわけでもない、……ただ零に戻っただけだよ」  織は鏡を見つめながら、ネクタイを結んでいた。鈴懸はゆっくりと織に近づいていき、その後ろに立つ。「結んでみて」そんなことを言われ、見よう見真似で覚えたやり方で、そのネクタイを結び始めた。  鏡越しに、織は鈴懸を見つめている。もたもたと、たどたどしくネクタイを結ぶ彼を。その瞳は幸せそうで――それでいて、哀しそうで。鈴懸は、織の言葉のなかに揺蕩う虚しさに、心を浸した。織が感じている哀しみは、きっと妖と実際に触れ合っている織にしか理解できないだろう。けれど、それを理解しようとすることは鈴懸にもできる。 「……たしかに、今までの儀式は虚しいものだった。俺もそう思う。けど、織――「碓氷 織」に触れた妖怪たちは、たしかに救われている。思い出したくねえが玉桂も、そして千歳も」 「……玉桂さまも、千歳さまも、救われていた? 本当に?」 「そうだよ。おまえのことを「織」って呼んだ二人だ。思い出したくねえが玉桂……あいつの、別れ際のあの腹立たしい顔思い出せよ。あの満足そうな顔――……織に酷いことしておいて何満足してやがんだ死ねってくらいいい顔してやがったじゃねえか。それから千歳……あいつ。ちゃんと、自分のことを見つめられるようになった。いい男になったよ」 「……そっか」  鈴懸がネクタイをなんとか結ぶと、織は朗らかに笑った。そして、そっと鏡に手のひらを添える。 「……なんで、俺が咲耶さんの生まれ変わりになったかって、考えることがあるんだ。答えはわからないけれど。でも、俺と咲耶さんには決定的に違うところがある。それがきっと、俺が咲耶さんの生まれ変わりとして生まれた、意味」 「……違うところ。それは、なんだ?」 「……貴方が、そばにいることだよ」 「……織、」 「……千歳さまに抱かれている時。俺は、恋っていうものの重みがわかったような気がする。千歳さまの声も、表情も……体の熱さも。心臓が押しつぶされそうなくらいに、苦しかった。咲耶さんなら、きっとそれには気付けなかったと思う。でも、貴方と出逢った俺は、それに気付いた。恋っていうものが、どんなに切なくて、哀しくて、愛おしいものなのか。俺は、そんな千歳さまの恋を超えて――……貴方と、恋をする。それが、どういうことなのか……なんとなく、わかったよ、鈴懸」  織は振り向いて、肩越しに鈴懸を見つめた。色っぽい、織の瞳。その奥にちらついた、火花のようでいて灼熱の灯火。微笑んだ織の顔に、迷いはない。 「俺には俺を幸せにする責任がある。咲耶さんの魂が宿ったこの命は、俺が必ず幸せにする。だから俺はどんなことがあっても、自分の恋を無碍にしない」 「織――……」  鈴懸と向き合った織が、微笑んだ。鈴懸はそんな織に、見惚れる。見惚れるあまり、一瞬ぼんやりと意識を飛ばしてしまった。  「綺麗だ」、鈴懸が呟いた。織の頬に手を添えて、そして、唇を重ねる。 「鈴懸――貴方と、恋ができてよかった。この体に生まれたことを、今まで何度も何度も恨んできたけれど……今は、この運命すらも愛おしい。鈴懸。碓氷 織は、幸せです。死ぬ時に、もう一度、この言葉を言えるように――」  唇を離し、織は言う。  部屋の出口まで歩いて行き、扉に手をかけた。   「――いってきます、鈴懸。自分の運命は自分で決めないとね」  

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