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千歳の章32

「――もう一度、言ってみろ」  大広間、長いテーブルを挟んで、織は両親である源治郎と瞳子と向かい合っていた。大きな部屋には三人以外はいなく、ずしりと重い静寂が立ち込めている。  驚いたように口に手をあてて目を瞬かせる瞳子、そして――眉間に皺を寄せて織を睨みつける源治郎。特に源治郎の方からの圧に織は怖気づきそうになったが、もう一度、深呼吸をして、言う。 「……有栖川との縁談を、お断りさせてください」  有栖川との縁談を、破棄したい。源治郎がそんな要求を簡単に飲んでくれるとは、織も思っていなかった。大財閥の子ども同士の政略結婚だ。一度取り付けたものを破棄するなどということは、安々と受け入れられるものではない。  案の定、源治郎は織の言葉に頷くことはなく、険しい顔をしている。 「……源治郎さん。そんなに怖い顔をしないで。織さん、びっくりしてい――」 「瞳子は黙っていなさい」 「……」  困ったように笑って源治郎に話しかける瞳子は、見たところ織の言葉を理解してくれているようだ。ただ、だからと言って安心はできないだろう――織はそう思っていた。瞳子はあくまで「親として」織の言葉を聞いているから、織の望みは受け入れようとしてくれている。しかし、源治郎は違う。「碓氷家の当主として」織の言葉を聞いている。だから、碓氷家の発展を妨げることになるであろう織の要求を受け入れてくれることはないだろう――それを、織はわかっていた。  有栖川との結婚を断ることができるか――それは織の中で重要でありながら、最重要なことではなかった。とにかく、自分の想いを両親に聞いて欲しかったのだ。以前のように泣き寝入りするのではなく、一度想いをぶつけてみる。嘆くのはその後でいいだろう――ーその想いで、織はここに立っていた。  だから、源治郎が織の言葉を跳ね除ける、その予想があったとしても織は怖くなかった。とにかく自分の想いを彼に届けたい、その一心だったからだ。 「……織、理由を聞かせてもらおうか。正直に言いなさい。話はそれからだ」 「……お慕いしている方が、いるからです」 「どこの娘だ」 「……っ、」  それ故に、理由を尋ねられて織は驚いてしまった。我儘に近い織の要求など、すぐに却下されるだろうと思っていたからだ。  どこまで言うべきか、織は迷う。両親は、鈴懸がこの屋敷にいることも、織の傍にいることも、知っている。しかし、まさかその鈴懸と織が恋人になっているなど知らないだろう。 「……娘、ではありません」 「娘ではない」 「……その、……お、……男、です……」 「男?」 「……神様、です。……鈴懸さまです。以前より私に憑いて私を見守ってくださっていた、鈴懸さまです……!」  有栖川の娘ではなく、まして女性でもない、人間でもない――そんな鈴懸との恋愛は、大反対されるだろう、そう思っていた。そのため、織は源治郎の反応に拍子抜けしてしまう。  なんと、源治郎は驚くこともなく、淡々と、織の言葉の意味を呑み込んだのである。 「……なんだ、織、おまえ――神様に輿入れするつもりだったのか」 「……え」  源治郎は織と鈴懸の交際を否定することもなく、むしろその先のことを問いてきた。これには織も驚いてしまって、目をぱちくりと瞬かせてしまう。 「神様に輿入れした人間の一族は、未来永劫廃れることはないという。神様の加護を受けるようになるらしいな。知っているか、あの城ヶ崎財閥は百年前にそこの娘が神様に輿入れしたらしいな」 「えっ、あ、あの、まだ私は鈴懸さまと結婚するとは……いえ、それよりも、お父様、……有栖川との縁談の件は――……」 「……有栖川との縁談の件か? それなら……数日前に、正崇さん(有栖川家の当主)から聞いている。どうやら令嬢が縁談を拒絶しだしたと」 「暦さんが?」 「相性が合わなかったんだろうと正崇さんは言っていたな。それなら無理やり結婚させる必要もないだろうと、あちらから言ってきた。そもそもこの縁談は、私と正崇さんの気まぐれのようなものだからな」 「……き、き、気まぐれ!? 政略結婚ではないのですか!」 「有栖川と碓氷は昔から親交があって、今更政略結婚などする必要はないんだ。ただ、うちの織が年頃だというのに恋人ができる気配がないから二人を結婚させては……と思ってな。有栖川と碓氷の関係を更に強めることにもなるだろうし、悪いことはないだろう……と思ったのだが」 「……そ、そんな」 「まさか当人たちの相性が合わないとは思わなかった。そして、おまえが神様に輿入れするつもりでいることも予想外だったよ」  源治郎は、織はいずれ縁談の破棄を要求してくるだろうとわかっていたのだ。だから、驚きを見せず、織の言葉を聞いていた。ただ、一度受けた縁談を断る理由ははっきりと聞いておきたいと、威圧的な態度をとったのだろう。  しかし、まさかあっさりと要求を飲んでもらえると思っていなかった織は、脱力してしまって上手く言葉を扱えなくなってしまった。  たしかに、有栖川との縁談について、源治郎も瞳子も政略結婚を匂わせるようなことは言ってこなかった。ただ「縁談の話が来た」とだけ言ってきていたのである。その相手が有栖川の令嬢だったものだから、織が政略結婚だと勘違いしていた、というだけらしいのだが――今までの心労は一体なんだったのかと、織は魂が抜けそうになるのを感じた。 「有栖川の方は子どもたち全員に良家の跡取りと結婚してほしいそうだが、……私は別に、織にそうさせたいとは思っていない。おまえは、今まで随分と苦労してきたからな。せめて、誰か良い人と結婚でもしてくれればと思っている」 「……お父様」  ――そういえば、こうして両親と面と向かって話をしたのは、久々だ。以前より、家族はみんな自分を疎っていると思い込んで生きてきたから……まさか、源治郎がこのように考えてくれていることなど、知らなかった。有栖川との縁談も、自分を道具のようにしか思っていないからそのようなことをさせるのだとばかり思っていた。だからこその勘違いだったのかもしれない。  突然に鈴懸との恋愛を許され気が抜けすぎてしまった頭では、なかなか思考が回らなかったが――す、と心の中にかかっていた霧が薄まっていくのを、織は感じた。  両親との軋轢は、知らずのうちに心の負担になっていたらしい。 「まさか織さんが私たちにこんな風に言ってくるなんて……夢にも思わなかったわ。ちょっと前の織さんじゃ考えられないもの」 「……お母様」 「織さんのこと、こんなに変えてくれた人との恋愛だもの。反対なんてしないわよ。ねえ、源治郎さん」  織が知らないだけで、源治郎も瞳子も、織のことを大切に想っていた。それを知った織は、言いようのない想いがこみ上げてきて泣きそうになってしまう。鈴懸との恋愛を許されたことの嬉しさもあったが――源治郎と瞳子に確かに愛されていたのだという事実が、何よりも、嬉しかった。  鈴懸とのこと、今までの旅のこと……色んな話を、織は二人にしてやった。ほとんど会話のなかった親子だったから、積もりに積もった話が止めどなく溢れてきた。 「お父様、お母様。ありがとうございます」  随分と、世界が広くなったと感じる。  織は、壁のように感じていた源治郎と瞳子を真正面から見据えて、改めてそう思った。呪われた運命に蝕まれた心は、鈴懸と共に過ごしているうちに、晴れ始めていたらしい。 「私を生んでくれて、ありがとうございます」  言ったことのない言葉を、織はここで初めて言うこととなった。二人は驚いた顔をしていたが――やがて、破顔して、涙を瞳に浮かべていた。

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