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千歳の章34

 好きなひとから、赤い薔薇の花をもらうのが、夢だった。  恋愛小説の登場人物のように、甘く幸せな恋をしてみたかった。 「織さまとの縁談はなくなったわ」  バルコニーの椅子に座って、暦はティーカップに口付ける。そのようすを、傍らで千歳は見つめていた。暦の瞳は空に光る青を映し、いつもよりも透き通っていて美しい。 「……何を考えている」 「あら、千歳。私に興味を持つの? めずらしいわね」 「……いつもと表情が違うから……」 「そう見える?」  暦はちらりと千歳を見上げると、ふ、と口元だけで微笑んだ。  織との縁談がなくなった――つまり、織が自分の意思を通したということだ。自分の人生が変わるきっかけとなった鈴懸への恋心こそが、織の誇り。碓氷家の次男として生きることよりも、鈴懸を愛するというのが織という人間の人生に於いて大切なことだった。彼がその想いを果たしたということを、暦は喜ばしく思ったのだ。  しかし、そんな喜びの中で、暦は思う。  ――では、自分は? と。  目の前に、好きな人がいる。この人へたったの一度も想いを伝えないまま人生を終えることは、自分にとって幸せなことなのだろうか――そう思った。有栖川家の嫡女としての誇りを守り通すこと、その誇りがこの人生の中で最もなことであった。しかし誇りを守ったところで、自分は幸せになれるのか……織が鈴懸との恋を選んだことによって、そんな迷いが生じてしまう。  ――この人から、薔薇の花束を貰いたい。小さな頃から描いていた夢。恋心は叶わなくてもいいから、せめて……この人から花を貰いたい。  きっと、頼めば買ってきてくれるだろう。花を貰うことくらい、赦してくれてもいいでしょう? そう暦は自分に言い聞かせる。 「――ねえ、千歳」 「なんだ」  ――でも。  ここで自分を赦すことは、正しいと言えるのだろうか。今まで有栖川家のために生きてきた自分を裏切ることにはならないだろうか。  女の幸せを望むのか、それとも「有栖川 暦」の幸せを望むのか。 (私は、有栖川の女。有栖川家を担う男の、最愛の妻になるのが――私の幸せ)  有栖川の人間として自ら人生にレールを敷いてしまう。きっとそれは、一般的な価値観で見れば幸せであるとは言えないだろう。事実、その生き方にたった今、暦は疑問を抱いてしまったのである。しかし――今まで有栖川の女として必死に生きてきた自分を、信じたい。有栖川を支えたい、そう思っていたことは嘘なんかじゃない。 「――髪を、梳かしてくださる?」  ――私は、有栖川 暦。自分の決めた道を進むことに、後悔なんてない。これは私が決めた人生。  千歳に、薔薇を買ってきて欲しい――そう暦が言うことはなかった。暦と千歳の関係は、男と女ではない。あくまで、有栖川家の嫡女と憑き神――それだけの関係だから。 

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