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白百合の章5
白百合も暦も、店に置いてきてしまった。千歳がなぜここまで焦ってあの吾亦紅という男から逃げたのかがわからない織は、ただただ困惑するばかり。まるで織の命を狙っているかのような発言をしていたが、彼は千歳がここまで恐れるような相手なのだろうか。
息も絶え絶えに、織と千歳は後ろを振り向く。案の定――吾亦紅は追ってきていて、汗一つかかずにそこに立っていた。
「千歳。君は逃げる必要ないでしょ? 僕は君に用事はないんだ。さあ、さっさと織を寄越せよ」
「……断る」
「……本気で言ってる? これが命令だとしても、君はそこをどけないの? もう一度言おうか――そこをどけ、織を寄越せ、千歳」
「……断る!」
吾亦紅という男は――ただの人間ではない。織も、それを悟り始める。妖怪――しかも普通の妖怪ではない、特別な存在。高貴な妖怪の千歳に対してここまで上からものを言えるのだから、そうなのだろう。
吾亦紅は頑なに織を守ろうとする千歳を見て、ふ、と笑って見せる。そして、手のひらからふわりと光の粒子のようなものを出すと、たちまち一振りの刀を生み出した。深紅の鞘の美しい刀。黒い着物を身にまとった彼に恐ろしいほどよく似合っていて、かえって不気味である。
「まさか知らないわけじゃないよね、千歳。僕に逆らった者は、人間であろうと妖怪であろうと、神であろうと――極刑だ」
吾亦紅がすらりと刀を抜く。さすがに千歳も怖気づいたのかびくりと一歩後ずさったが……その横で、織はさらに怯えていた。
何が起こっているのかわからない。今がどういう状況なのかもわからない。そもそもこの男は一体なんなのか――「あの人、誰ですか……?」織はこっそりと、千歳に尋ねてみる。
「……あれは、地獄に住んでいる神だ」
「地獄の神様……? 閻魔大王様、みたいな?」
「その、閻魔大王の家来だ。うつしよに住んでいる生き物たちが、死後、天国へいくか地獄へいくかを判断する役割を担っている」
「……あの方、……すごく偉い方なんですか?」
「そうだな……閻魔大王やその家来は、一人ひとりの魂の罪を公平に判断して、それに基づいて命令を下している。そうだな……あいつの命令に背くということは、人間で言えば裁判で下された刑を無視するようなものだ。つまり、吾亦紅の命令は絶対。あの男の地位が高いのかといえばそうではないかもしれないが、あの男の命令に逆らってはいけない」
織は千歳の話を聞いて、唖然とする。
千歳の話を聞いたところによれば――吾亦紅に命を狙われるということは、人間で言う死刑囚になったようなものだ。全く心当たりのない織であったが、相手は人間ではなく神。人間界の裁判と違って、冤罪などありえないだろう。
「わ、……吾亦紅様。私の……罪を、教えていただけませんか」
「ん? ああ、なんで自分が殺されそうになっているのか知りたいんだ。安心するといい。別に、君がなにか罪を犯したというわけではないからね」
「え……じゃあ、何故……」
吾亦紅はあっけらかんとして「織に罪はない」という。そんな風でいながら殺してこようとしているのだから、織も納得がいかなかった。いくら相手が特別な存在であっても、無意味に命を奪われたのではたまったものではない。
訝し気に眉を顰める織を見て、吾亦紅は目を細める。その目つきは舐めるようでいて、居心地が悪い。思わず織が後ずさりすれば、それを追うように、吾亦紅が一歩踏み出してくる。
「咲耶だ。君のなかにある、咲耶を僕は殺さなくてはいけない。ごめんね、織。君という肉体には用はないんだけど、君がいると咲耶の魂がこの世に在り続けることになってしまう」
「……私が、咲耶さんの魂の依り代になっているから私を殺すということですか?」
「物分かりがいいじゃないか。そう、いくら魂が残っていようと、依り代がなければこの世に留まることはできない。だから、咲耶の魂の依り代である君を、僕は殺す」
ずり、と吾亦紅のもつ刀の切っ先が地面を引っ掻く。
「……、」
織は吾亦紅の発言に違和感を覚え始めていた。そもそも、罪のない織を殺すと言っている時点でおかしいが――「魂を破壊できないから依り代を破壊する」ということは、咲耶への断罪にならないはずである。傷つけるのは別人の肉体であり、咲耶の魂ではないからだ。つまり、吾亦紅がしようとしているのは咲耶への断罪とはまた別のこと。咲耶の魂がこの世に在るということが、吾亦紅にとって不都合があるということだ。そして「断罪」が目的でないのなら、それは地獄という組織の決定ではなく、吾亦紅個人の決定であるということになる。
「――咲耶さんの魂が、この世に在ってはいけない理由はなんですか」
「……僕自身が、咲耶を憎んでいるからに決まっているだろう」
「――は?」
吾亦紅が咲耶を憎んでいるから、咲耶を殺す――その言葉に、織は信じられないといった目を向けた。
公平な立場であるべき吾亦紅が、個人的な感情で人間を殺すなど、許されていいのだろうか、と。そして、吾亦紅ほどの立場の人間に恨まれるなど、咲耶はいったい何をしたのかと。
固まる織の前に立ちふさがるように、千歳が前にでる。そして、吾亦紅をぎろりと睨み付けて、後ろ手で織の手を握った。
「織の殺害が地獄の正式な決定でないのなら、俺はおまえに逆らっても問題ないな。これ以上織に近づいたらおまえの首を咬みちぎるぞ。そもそも――勝手な判断で人間を殺したら、おまえが極刑になるんじゃないのか!」
「おお怖い怖い、白虎様も野蛮なことを言いなさる。まあ……僕が極刑になるか、君に殺されるか……それはどうでもいいけれど。僕は同じ世界に咲耶の魂があるだけで虫唾が走るんだ。さっさと織を破壊させてもらう」
「――……ッ!」
吾亦紅は聞く耳を持たなかった。ふ、と笑うと思いきり地面を蹴って、そして千歳に斬りかかったのである。凄んではみたが自分と吾亦紅の力の差を認識していた千歳は、とにかくこの場から織を逃がそうとした。体を翻し、姿を白虎に変え、そして無理やり織を自分の背に乗せると、そのまま飛び立った。
「ち、千歳さま……!」
「碓氷の屋敷に戻るぞ! あそこは、結界が張っているんだろう! あの中なら、おまえの魂の気配を隠すことができる! このまま、追いつかれなければな……!」
「そ、そんなことより、血が……!」
「そんなのはどうでもいい!」
千歳は、吾亦紅の攻撃を躱した際に刃が掠ってしまっていた。真っ白な毛並みが赤黒い血で穢れていて、織はぎょっと慌ててしまう。しかし、千歳は構わず空を蹴り、ものすごい勢いで碓氷の屋敷があるところまで駆けて行った。
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