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白百合の章26
人間界には、何度か下りたことがある。特別いいところとも思わないが、地獄とはやはり景色が違うため、気晴らしにはちょうど良い。僕はひとけの少ない村のはずれにある大木の上で、ぼんやりと空を眺めていた。
少し村に近づくと、人間たちの思念を感じて心が疲労してしまう。僕たち鬼を生む、人間の思念。無尽蔵に湧き出るそれらは、妖怪よりも恐ろしいものなのではないかと思ってしまう。愛に憎しみ、喜びや悲しみ……人間のなかにある「想い」は、きっと何よりも強力な力である。
閻魔大王の使いになったら、そんな人間たちを見張らねばならない。僕も、少しずつ人間に慣れていかねばと村に行ったり離れたりを繰り返していたのだが、しばらくそうしているうちに疲れてしまって、こうして休んでいたのだ。
「……ん?」
静かな村はずれ。人間など来ないと思っていたのだが、下から物音がして僕は体を起こす。
「……鬼、……?」
大木の下には、人間と同じ大きさをして、女物の着物を着た「生き物」がいた。上から覗いているため、顔は見えない。ただ、僕はそれを「鬼」だと直感的に思った。
それは、あまりにも強烈な思念が絡みついていた。憎悪や執念といった、強烈な負の感情が、まるで質量を持っているかのように感じ取れる。ここまで強烈な思念を抱える生き物といえば、鬼しかいない。
「誰かいるの?」
「……うっ、」
あまりにも僕が見つめていたからだろうか、それは僕に気付いてしまった。ぱっと顔をあげて、僕を見上げてくる。
……僕は、それの顔をみて鳥肌がたった。
「……君は」
「咲耶。私は、咲耶よ。貴方は?」
「……吾亦紅」
――それ、……いや、彼女は、人間だった。
僕は恐怖を覚えた。僕が鬼と間違えるほどの、強烈な思念を抱えた人間。あまりにも強すぎる思念は、見たところもはや「妖力」に変化しており、あれは恐らく何かの力を持っているに違いない。
僕は信じられなかったのだ。そんなにも強烈な負の感情を持つ人間がいるということが。もう魂は鬼に近づいており、彼女は人間から離れていっている。
「ねえ、吾亦紅。下りてきてよ。私と、遊びましょう」
「……。僕と遊びたいのなら、……その汚い着物をどうにかしてきてよ」
「あら。私ったらはしたないわね」
何もかもが、不気味だった。彼女の持つ思念は、彼女自身が発しているものだけではない。彼女が、「外側から取り込んだもの」も含まれていた。その正体を感じ取った時、僕はもう、彼女を人間だとは思えなくなってしまった。
『人間界に人食い鬼がいる』。玉桂が言ってきた言葉を思い出す。咲耶という彼女は、何が目的なのかは知らないが――人間を、食っていた。彼女の着物にはあきらかに彼女のものではない血がついており、そして彼女に絡みつく思念に彼女以外のものが混じっている。人食い鬼とは、この咲耶という女のことだろう。そんなに派手な噂があるにもかかわらず、こうして彼女が捕まることなく無事でいられるというのは、不思議なことではあるが。
「吾亦紅。明日、綺麗な着物を着てくるから、私と遊んでよ」
「……なぜ僕が君と遊ばなければいけないの」
「だって、私、寂しいんだもの」
「……はあ。まあ……気が向いたらまた明日、ここに来てあげるよ」
「本当? 嬉しい。ありがとう」
彼女は、人間ではない。気味の悪い、鬼だ。
そうは思ったが、僕は彼女に嫌悪感を抱いたというわけではなかった。むしろ、放っておけないと思った。負の感情に憑りつかれ、心を失い、そして寂しいという気持ちを抱えている。……まるで、昔の僕のようだったからだ。
僕は櫨のように彼女を救うことはできないだろうが、少し会話をしてあげるくらいならしてやってもいいと思った。せめて、彼女が本物の鬼になってしまわないように。
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