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白百合の章32

 雲一つない夜空に、大きな満月が浮かんでいた。それはそれは見事なもので、見上げていると心を奪われ、知らずにぽかんと口を開けてしまう。あんまりにも美しい月だから、櫨と共に見ることができたらと思ったが、その日も櫨は帰ってこなかった。 「ねーえ、吾亦紅さん! もう、聞いてよ!」  僕を囲うようにして酒盛りをしているのは、月の狐たち。彼女たちは大層呑んだのか、顔を真っ赤にしながら大きな声でおしゃべりをしている。べろべろによったその内のひとり・イイノが僕に抱きつくようにして話しかけてきた。 「私、結婚するなら吾亦紅さんのような人がいいわあ!」 「……イイノ、君は玉桂の旦那の側室だろう。なんでそんなことを言うの?」 「だって、吾亦紅さんは誠実でしょう! 絶対に浮気なんてしないもの!」 「……旦那が浮気でもしたの? それは悪いことだと思うけど……だからって僕にそんなことを言っちゃだめだよ。旦那とちゃんと話をして、」 「いや! もういや! 吾亦紅さんがいい! どんな女豹にも絶対に靡かない、吾亦紅さんがいい!」 「……ええ?」  相当酔っているのだろうか。イイノはキンキンと高い声で怒りの声をあげていた。  僕はため息をつきながら、イイノの背中を撫でて彼女をなだめてやる。何人もの側室を抱えている時点で、旦那がいろんな女性に興味を持つことはわかりきっているから、今更僕も旦那を咎める気も起きない。「諦めろ」くらいしか言葉はでてこないが……。イイノがなぜ、そこまで僕を誠実だと言うのか、疑問に思った。たしかに僕は櫨のことを愛しているが、「どんな女豹にも絶対に靡かない」ような状況に陥ったことはないため、イイノにそこまで言われるのも違和感を覚える。 「すべての男が、吾亦紅さんのような人だったらいいのよ!」 「……それはどうかと思うけど」 「いいえ! 淫術を跳ね返す力は、男は絶対持つべきだわ! あんな人間に、玉桂さまったら……!」 「……え?」  ――淫術を跳ね返す力。それはたしかに、僕だけが持つ特殊な力だ。それがなぜ、今の話に出てくるのか―― 「……旦那、誰かに淫術でもかけられて浮気してるの?」 「そうよ! 咲耶……咲耶よ! あの鬼のような人間! 化け物のような妖力、そして淫術! 玉桂様は……咲耶の淫術に囚われてしまったの――!」  イイノの言葉に、僕は「嘘だろ」と言いたくなってしまった。  咲耶。僕が人間界で出逢った、鬼と化した女。彼女は妖怪を誑かすほどの無意識的な淫術を使うが――まさかそれに、玉桂がかかるとは思わなかったのだ。たしかに、咲耶のあの淫術は強力なものだ。しかし、玉桂のような神性を持つ妖怪がかかってしまうほどのものとは思えなかった。だって、咲耶はあくまで人間だ。鬼とほぼ同等の邪悪な魂に堕ちてはいるが、人間だ。いったいどれほどの怨念を抱えればそのような強烈な妖術を使えるようになるのか――想像しただけで、身の毛がよだつ。 「ねえ、吾亦紅さん……どうしたらいい? どうしたら、玉桂様にもう一度私を見てもらえるの? 咲耶を、殺せばいいの? ねえ……」 「……イイノ、落ち着いて。気持ちはわかるけど……殺すのは、だめだよ」 「……でも」  もしも、櫨が咲耶に奪われたら。考えるだけでも身が千切れるような悲しみを覚える。けれど、だから咲耶を殺すのかと言えば、それは違うのではないかと、そう思った。憎いからといって、殺してはならない。呪われた魂を術を、僕は知っている。憎しみに塗れた魂は、どうするべきなのか――僕は櫨に愛されて、それを学んだはずだ。  彼女の救済を、僕は祈るべきなんだ。たとえ彼女が、どんな邪悪だとしても。

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