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白百合の章33

「旦那――……おかえり、玉桂の旦那」  玉桂は頻繁に外へ赴くようになった。帰ってくるのは、狐たちが寝静まった深夜。玉桂の帰りを待って起きている狐もいたが、ほとんどの狐は玉桂が違う女に目移りしてしまったのだと悲しんでいた。  ある日、僕は旦那の帰りを待って遅くまで起きていた。少しだけ、さみしかったのである。腹の子の成長が進むにつれ、体調が悪くなっていく。外に出ることができない僕は、話し相手といえば屋敷に住まう狐たちだけだったのだが、やはり同性の相手ともたまには会話をしたくなるのだ。櫨は、もうしばらく帰ってきていない。 「ああ、……吾亦紅か。どうした、こんなに遅くまで起きていて」 「……旦那と、会いたくて。もうずっと、僕は貴方と顔も合わせていないよ」 「……そんなにキミに好かれているとは思わなかった」 「……好きだよ。旦那も、僕を救ってくれた人のひとりだ」  玉桂は僕を見るなりいつものように微笑んで見せたが、どこか目は虚ろだった。僕を、その目に映していなかった。  その理由は、すぐにわかった。玉桂は、咲耶の怨念にとり憑かれていたのである。玉桂の体からは、強烈な瘴気のようなものが発せられていた。 「……旦那。旦那は……今、自分がどんな状態にあるのか、わかっている?」 「……咲耶のことか。魂を囚われていると、言いたいのだろう」 「なんだ……自覚してるの?」  正直、驚いた。我を忘れて咲耶に入れ込んでいるとばかり思っていたから、玉桂がそれを自覚しているとは思わなかったのだ。  ……それならば、なぜその淫術から逃れようとしないのかが疑問だが。 「並の妖怪であれば、あの淫術に囚われたら気が狂ってしまうだろう。しかし私は、そこいらの妖怪とは違う。自分が咲耶の淫術に囚われているのだと、わかってしまう」 「それなのに、旦那はなんで彼女のもとへ行くの」 「さてな……一度囚われると、逃れられないのだ、あれは」 「……」  玉桂の言いぐさは、まるで恋に惑う男のようなものだった。きっと、玉桂自身もそのつもりなのだろう。しかし、それがただの呪いだと僕は知っている。恋、がこんなにもまがまがしいものか。旦那を纏う瘴気は、あまりにもおぞましい。  大切な人を奪われたような気分になった。玉桂は僕と話をしながらも、どこか遠くを見て惚けているようにみえた。この呪いに囚われると、何もかもを忘れて咲耶のことだけを想うようになるのだろうか。もう、玉桂のなかに僕はいないようだ。  すべてを捨てて、飢餓的に愛する。それは……幸せというのだろうか。僕は玉桂を見て思う。  咲耶は、きっと辛い人生を送ってきた。捨てるものもなにもなかった。それはつまり、持っているものがないということ。空っぽな自分の心を、愛されることで満たそうとしているのだ。  虚しい――そう思う。こんな愛は、咲耶を救わない。救えない。  彼女を救えたなら――……僕がそんなことを思うのは、淫術を跳ね返す力を持っているからかもしれない。こうして玉桂の瘴気を感じることができるのも、そのせいだ。彼女の淫術の悍ましさを感じとることのできる僕は、その哀しさも同時に感じ取ることができる。    彼女を救うには……やはり、一度死んで、そのあとに罪を償わせるしかない。正しい魂の循環の輪へ、導いてあげることだ。早く死んだ方がいい、なんて思うのは少し酷かもしれないが、それが彼女の魂を救うための方法ならば仕方ない。僕も、子供が産まれて落ち着いたら櫨と同じように大王の使いになれる。そうしたら、咲耶を救うこともできるかもしれない。    ぼんやりと咲耶のことを語る玉桂を見つめながら、僕は彼女の救済を願っていた。玉桂も、呪いに囚われたままにしておくわけにはいかない。彼もまた、僕にとって大切な人なのだから。

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