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白百合の章35
妊娠してから三ヶ月ほど経った。その間、櫨が帰ってきたのは片手で数えられるほど。ただし、僕と顔はあわせていない。どうやら僕が寝ている間に帰ってきて、僕の隣で寝て、僕が起きる前にまた出て行ってしまっているらしい。僕は櫨の残り香に、彼が帰ってきていたのだと気付く程度だった。僕が彼に気付かず眠っているのは、妊娠を原因とする強烈なだるさと眠気があること、そして櫨がそんな僕を気遣って起こさないようにしていること、それが理由だった。
だから、こんな夜は久々だった。あまりにも体調が悪くて、だるさや眠気よりも具合の悪さが勝り、眠ることができない。昼間は狐たちが看病してくれたが、夜になると彼女たちも床に就いてしまう。いっそ気を失ってしまいたいと思いながら夜の闇を吸っていた僕は、そこに現れた人影を夢だと勘違いした。
「……はぜ、?」
部屋に現れたのは、櫨。もう丑の刻となる、深い闇のなか。彼はそっと、音も立てずに部屋に入っていた。
櫨は僕が起きているということに気付くと、はっとしたように目を見開いた。そして、ゆっくりと近づいてくると、僕の傍らに腰を下ろす。
「吾亦紅――……」
「……はぜ、……はぜ」
櫨は何か言いたげだったが、彼が言葉を紡ぐよりも先に、僕の瞳から涙が溢れてしまった。ずっとずっと会いたくて、でも我慢していて――そんな人が、こうして僕を見ている。体調の悪さで気が滅入っていたのも相まって、僕は柄にもなくぼろぼろと泣いてしまったのだ。
「櫨、……会いたかった、櫨……櫨……」
「吾亦紅、」
「櫨……手を、……」
もう、頭が真っ白になっていた。櫨が僕を見てくれている、それだけが嬉しくて、僕はただ彼に触れたくて仕方なかった。無意識に体を起こし、心配そうに僕の背中を支えてくれた彼にしなだれかかるようにして抱きついて、そして、彼の唇を奪った。
「好き、……櫨、……好き、……好き、……会いたかったよ、櫨……櫨、……」
泣きながら口吸いをしてきた僕に、櫨は驚いただろう。僕だって、驚いていた。
僕は狐たちに、「平気だ」といつも言っていた。けれど、それは虚勢だったようだ。それに、今気付いたのだ。本当は寂しかった。とてつもなく、寂しかった。ずっと櫨にそばにいて欲しかったし、抱きしめて欲しかったし、口付けをして欲しかった。櫨に迷惑をかけたくないと、そればかりを考えて、僕は僕の本当の心を押し殺していたのだ。
子供のように声をあげて、僕は泣いていた。何度も何度も「好き」と、今まで言えなかった分をすべて吐き出すように、うわごとのように言っていた。
「吾亦紅……」
「うん、……」
「……ごめん、……ほんとうに、ごめん」
「ううん、だいじょうぶ」
「――ごめん」
強く僕を抱きしめてきた櫨が、声を震わせて僕に懺悔する。
「俺は、こんなにもおまえを愛しているのに。おまえは、こんなにも俺を愛してくれているのに。なぜ。……なぜ、俺は――……」
「……はぜ?」
「……吾亦紅、……ごめんな……」
彼は、ずっと、謝っていた。はじめはなかなか帰ってこれないことを謝っているのかと思ったが……何かが、違う。そう感じた。けれど僕は、櫨に抱きしめられた喜びで、それについて思案する余裕などなかったのだ。
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