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白百合の章68

 そろそろ執行官が自分のもとにやってくるだろう。そんなとある日。吾亦紅は明澄神社へやってきていた。  なぜ、自分がここへやってきたのかわからない。彼に願いたいことなど何もないのに。  そうだ、きっと。彼に暴言を吐いたことを謝りたかったのかもしれない。きっと。 「……ずいぶんと、老朽化したなあ」  様変わりした明澄神社の姿に、吾亦紅はむなしさを覚えた。かつて憧れすらも抱いた神の社が、見るも無惨に倒壊しかけている。ああ、こんなことになっているから、あの神様は人間のもとにいたのかと、変に納得してしまった。  けれども、明澄神社からは小さな力を感じた。  まだ、竜神の力が残っているのだろうか――そんなことを吾亦紅が思ったとき。 「――よう」  上のほうから声が聞こえた。  ハッ、と吾亦紅が鳥居の上を見上げると…… 「ようこそ。俺の家に」 「……鈴懸、様」  鳥居の上に、鈴懸がどっかりと座り込んでいた。  何故? 彼は織のもとにいるのではなかったのか。 「なんとなく願いが聞こえてきたような気がしてなあ……来てやったぜ。俺は俺に祈る者を救う神だからな」 「願い? そんなもの……僕は持っていないけれど」 「そうか? 俺の勘違いだったか? たしかに、聞こえたと思ったんだが」 「そうだよ……きっと、貴方の勘違いだ」 「わざわざこんなところまで来たってのに、本当に何の願いもないのか。おまえは」 「……僕もわからない。何故、ここまで来たのか」  わざわざ鈴懸はここまでやってきたらしい。  たった一人、吾亦紅の「願い」のために。  けれども吾亦紅には願いはない。何故ここまで来たのか、自分自身わかっていないのだ。 「……おまえ、なんであのとき織を殺さなかったんだ」 「さあ……。なんだろうな。あんな酷い女の目の前だというのに、……櫨のことを思い出したんだ。櫨と一緒にいたとき、楽しかったなあって。そんな、もう二度と戻ってこない記憶を……咲耶を、……それから彼女の友人だという白百合を見たら思い出した。自分と櫨……それを、あの女に重ねちゃったのかも」 「ふうん。おまえ、優しいやつなんだな」 「はは……どこが。織を殺そうときみたちを襲った僕に、それをいう?」 「ははっ、たしかにそれはそうだ」  そう――咲耶。彼女の笑顔を壊すのが怖かった。あんな女でも、普通の少女であったときがあったのだと思うと……ひどく、切ない気持ちになったのだ。 「おまえにとって、その櫨との思い出が、本当に大切だったんだろうな」 「――……」  もしも。櫨との愛を知らずにいたら。憎い人間のことは難なく殺せただろう。「楽しい」という感情も、「愛しい」という感情も、何一つ理解できなかったのだから。  ああ、……愛とは余計な感情だな。そう思うと同時に、自分もただの人間だったのだと思い知る。 「ねえ、鈴懸様。もう二度と会えない人を愛し続けることに、意味はあると思う?」 「意味……意味はないだろうな。でも、おまえがおまえであり続けるために、大切なことだ」 「……僕が僕で。……僕はね、死のうと思ったんだ。もう咲耶のことも殺せないみたいだし。でも、……そうだな」  なんで、この明澄神社に来たのだろう。  この石段を登るときに、何故か思い出していたのだ。たくさんの、櫨との思い出を。  櫨と出会ったときのこと。櫨と愛し合ったこと。櫨と苦しい時間を過ごしたこと。すべての愛おしかった時間は、石段を登り切るまでには足りないほどのものだった。一段一段踏みしめるたびに思い出した彼との思い出は……ひとつ、吾亦紅に願いを与える。 「……鈴懸様、願いをひとつ……聞いてくれるかな」 「ああ。願うといい」  壊せない。彼との思い出を。この身のなかで、この心のなかで。 「櫨の思い出と共に、生きていきたい。生きる勇気を、くれるかな」  鈴懸はふっと笑う。そして、優しく告げた。 「生きる勇気ならもうあるじゃねえか。ここにおまえの足で来たんだ。おまえは――櫨と一緒に生きたいと思っていたんだよ」 「――……」  そうか。  明澄神社に太陽が昇る。  御社殿の後ろから光りが昇り、そして、鳥居に座る鈴懸に光りがさす。ニッと笑った鈴懸は、太陽に照らされて美しかった。  心のなかに朝日が昇ったような気がした。 「……鈴懸様」 「ん?」 「あのとき、斬りかかっちゃってごめんね」 「ははっ、俺はいいんだよ。織も俺も、べつに怪我してねえし。でも千歳にはちゃんと謝っておきな」 「……うん」  零れるように吾亦紅が笑う。  櫨との思い出が心のなかに溢れてくる。 「……ありがとう。僕、生きていくよ」

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