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灼の章9

 藍摺の山は、朝方であっても仄暗い場所だった。深い霧が常にかかっているからであろう、太陽の光があまり入ってこない。冷たい空気が頬をさす、寂しい山だった。 「湿気がすごいな……こういうところには魔物がたまるから一応用心しておけよー……ってどうした、織」  灼の居る場所に向けて、山道を歩いてゆく。そんななか、織は一度も鈴懸と目を合わせようとしなかった。今朝、目が覚めた時からずっとそうだったのだ。鈴懸とは目を合わせないようにしている。なんで避けられてるんだ……と鈴懸がじっと織の横顔を観察していれば、みるみるうちに顔が紅くなっていった。 「……照れてる? 裸で一緒に寝たから?」 「なっ……」  織のあからさまな避けっぷりにひとつだけ心当たりがあった鈴懸がそれを指摘してみれば、織は一気に頬を紅潮させた。図星のようだ。ぷるぷると震えだして、手でこそっと顔を半分隠す。 「初心すぎだろ~。ヤっておきながらそれくらいで照れるとか」 「ヤっ……は、破廉恥だぞ!」 「ほら、手でも繋ぐか? ほらほら」 「……」  照れる織。可愛いなあ、なんて思いながら、鈴懸はにやにやと笑う。手を差し出してみれば、織はむすっと唇を尖らせながら鈴懸を見つめた。 「……足場悪いし……まあ、危ないから、……」  そろ、と織が手を差し出してくる。口は可愛くないが、行動は素直。鈴懸は「お」と声をあげて、ひひっと笑う。  指先が、近づいてゆく。ゆっくり、ゆっくり。やっぱり触れ合うことに躊躇う織は、すぐには手を繋ごうとしなかった。でも、恐る恐るながらも確かに鈴懸に触れようとはしていたから、鈴懸はあえて織から触れてくるのを待っていた。織から触れることができれば、だいぶ変わるだろう……そう思ったから。 「――あ」  あともう少し。そのとき。ぽつ、と織の手に冷たいものが落ちてきた。雫だ。雨が、降ってきたらしい。 「……なんだよ、雨雲なんてなかったぞ」  雨粒が手にあたったことで完全に気がそれてしまったのか、織はもう鈴懸に触れてこようとはしなかった。ぽかんと空を眺めているばかりである。鈴懸はそれが面白くなくて、不貞腐れたような声を発したが―― 「ん、……」 「え? どうした、顔色が……鈴懸?」 「いや、なんだか目眩が――……」 「鈴懸!?」  くら、と視界が廻り。がくりと座り込んでしまった。 「ど、どうした!? 具合悪いのか、……え? 神様って風邪ひくの!?」  顔を青くして頭を垂れる鈴懸。初めて見る鈴懸のそんな姿に、織は慌てふためいた。なんだかんだ頼りにしていた鈴懸が、そんなふうになってしまえば焦るのは仕方ない。しかも、彼は人間ではないから、どうすればいいのかもわからない。  そうこうしているうちに、雨足が強くなってきた。ぽつぽつと振っていたものが、ざあざあと叩きつけるようなものに。霧も濃くなってきて、まるで異世界に引きずり込まれたような錯覚を覚えた。 「……、」  何かが、おかしい。  織はそう感じ取る。鈴懸の言ったとおり、雨雲などなかった。天気雨にしても激しすぎるし、この雨はどこかおかしい。……妖怪が、現れたのだろうか。 「す、鈴懸……?」  嫌な予感がする。ぞわ、と寒気を覚えた瞬間だ。織は気付く。鈴懸の、意識がなくなってしまっているということに。ぐったりと織に体をもたれて、顔を蒼くして目を閉じている。 「鈴懸、鈴懸……大丈夫!? 鈴懸……!」  怖くなって、でも鈴懸を放っておけなくて。織が座り込んでいると、視界の端に毒々しい赤が見えた。ハッとして顔をあげれば――そこには、からからと廻る、かざぐるま。雨に打たれ、濃い霧のなかまるで幻術のようにぽっかりと赤を湛えて、かざぐるまが廻っている。  灼だ。ここに、灼がいる。ゾッと恐怖を覚えて、冷や汗が体を伝うのを感じたとき。体にずるりと何かが這うような感覚を覚えた。恐る恐る織が視線を落とせば――織の体に、触手のようなものがまとわりついている。 「ひっ……」  触手は――なんと、鈴懸からでてきている。しかし、鈴懸の本来の姿は白く美しい毛並みの竜であり、このような醜い触手など断じて生えてはいない。つまり……鈴懸は、灼に取り憑かれている可能性がある。  なぜ? 妖力の強い鈴懸が、なぜ灼に取り憑かれたりしたのか。鈴懸に比べずっとずっと弱い織が側にいたにもかかわらず、なぜ灼は敢えて鈴懸に取り憑いたのだろう。  織が思考を巡らせていれば。触手はずるずると大量にでてきて、織の体にぐるぐると巻き付いてくる。抵抗する術もない織は、怖くてぎゅっと鈴懸に抱きついた。そうすれば触手は鈴懸ごと織を巻き込んでいき、ぎっちりと縛り付けてしまう。 「ん……」 「す、鈴懸……!?」  苦しい。締め付けられる苦しさに、織が目眩を覚えたとき。鈴懸が、小さく唸る。織が慌てて鈴懸の顔を覗きこめば――鈴懸の瞼が開き、ぱちりと目があった。赤い美しい宝石のような瞳。吸い込まれるようなそれに目を奪われて――堕ちるような錯覚に陥って。  いや。錯覚ではなく。  意識が、引きずり込まれてゆく。織は強烈な目眩と共に――ふ、と意識を失ってしまった。

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