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玉桂の章3

「外はちょっと肌寒いな……」  白百合が寝付いたころ、織はそろりと屋敷の外へでてみた。もちろん、詠の結界が届いている範囲内である。詠と白百合を仲直りさせたいと思いつつもなかなかうまくいかない、そんなもやもやをすっきりさせるために夜風にあたろうと考えたのだ。 「あ……」  少し歩いて、織はあるものに目を奪われる。  大木の枝に座るようにして眠っている、鈴懸だ。こんなところで寝ていたのか……と思う前に、その神々しさに目を奪われた。夜風にそよぐ銀髪が、月光を纏ってきらきらと輝いている。美しい着物は立派な大木と調和していて、まるで絵画のようだ。 「……ん、織……?」 「こ、……こんなところでいつも寝ていたんだ?」 「……詠みたいな生娘と一緒に寝るわけにはいかないだろ」 「それもそうか」  鈴懸と二人きりで話すのは、そういえば久々だろうか。  織は少しだけ緊張しながら、鈴懸の座っている大木へ近づいてゆく。 「満月の夜は危険だって、……白百合さまが言っていた」 「ん? 俺の身を案じてくれてる?」 「えっ……い、いや……ちがうけど」  心のぎりぎりのところまで触れあい、そして体の奥で繋がった。そんな、密月と呼ぶには少し足りない、鈴懸と過ごした数日前までのことを思い出して、織はこくりと唾を呑む。夜の冷たい風が、火照る頬に気持ちいい。 「玉桂のことを言ってんだろうなあ、あいつは。それなら、大丈夫だ。玉桂は俺のところにも、おまえのところにも寄ってこないだろうよ」 「……なんで?」 「玉桂は、強い邪気に導かれてやってくるらしい。おまえも、……まあ、俺も。魂が強いとは言えねえが……汚れてねえのはたしかだろう? 玉桂は、俺たちには興味ねえよ」 「……鈴懸」  鈴懸の言葉にホッとするのと同時に……どきっ、とした。  そんなに穏やかな顔で、その言葉を言うのだ、と。鈴懸は灼に取り憑かれていた時に、初めて自分の心の弱さをその口で吐露した。そしてそのときに、織の心の弱さを疎んでいたことも告白してきた。織の弱さも、そして自分自身の弱さも……彼にとっては、向き合うのは辛いはずなのに。それを、こうして言ってくるなんて。 「まあ、そういうわけだから、今宵はただの月の綺麗な夜だ。久々に、二人でゆっくり過ごそうぜ」 「へっ」  ぼんやりとしているのも束の間、鈴懸の言葉に、織の意識は完全に持って行かれた。  二人で過ごそう、なんて。そんな、まるで……恋人にでも言うような言葉。鈴懸は……俺のことを、あまり好きじゃなかったんじゃなかったか……そう思った織は、混乱して顔を赤くした。 「……そんなこと、言うなら……下りてこいよ。ちょっと距離がありすぎて、少し声をはらないと会話にならない」 「おまえが来いよ」 「はあ? 俺がこんな高い木に登れるとでも?」 「……登れるんじゃねえかなあ」  見上げるほどに高いところに腰を下ろす鈴懸が、涼しい顔で呟く。そんなわけないだろ、と心の中で悪態をつきながらも、どこか美しい彼の表情に、織は目を奪われていた。呟いた声は、夜の静寂に溶けいっていくような。そんな、幻想的な景色。 「俺の力が、だいぶ戻ってきたような気がしたんだ。簡単な願いなら、叶えられるような気がする。おまえが、俺の側に行きたいって願ったなら、それを俺は叶えられるかもしれない」 「……え」  夢うつつ、そんな雰囲気を漂わせ、鈴懸が言ったこと。  織が「鈴懸の側に行きたい」と願い、それを鈴懸が叶えるという形で織が木の上に昇るという方法だ。 「……べ、別に……貴方の側に行きたいなんて願わなくても……木に登りたいって願えばいいだけのこと」 「……強い想いを汲んだ願いじゃなければ、今の俺には叶えられない。どう願うかはおまえの勝手だ。強い想いをもてる方法で願え」 「はっ……」  ……そんな、恥ずかしいこと。織はすぐさまそれを拒絶した。「鈴懸の側に行きたい」なんて。まるで……まるで、「鈴懸に焦がれている」と言っているようなものじゃないか。誰が、そんな願いをするものか。こんな神様に、誰が。  織はかあっと頬を染めながら、うつむく。  「木に登りたい」と願うんだ。そう、その願いを叶えてくれよ、神様。俺をあそこへ連れて行って、そして鈴懸の隣に……じゃなくて、月の眺めがいいところに。あの場所なら、鈴懸とゆっくり月を見ることができ……でもなくて、月の美しさを堪能できるだろう…… 「……」 「……ごちゃごちゃと願いが混ざっててわかりづらい。叶えられようがない」 「えっ、俺の考えていること、読めてるの!?」 「いつも読んでいるわけじゃねえよ。願いを叶えるんだ、読むのは必然だろう。とにかく、今のおまえの願い……どれが願いなのかよくわからなくて叶えられない」 「よっ、……読むな……ばか! 待って、本当に今の俺の考えていること、聞いちゃったの!? すずか、」  願いのところどころに混ざった、「鈴懸」への想い。それを読まれてしまったなんて、恥ずかしいにもほどがある。あのムカつく神様にそれを読まれたなんて、癪だ……そう思って、織がぷるぷると震えながら顔をあげたとき。  息を呑む、光景が。 「……っ」 ――鈴懸が、織を見下ろし……頬を微かに染めて、瞳に熱を揺蕩えていた。  それを見て。  織の心臓が、どくんと大きく波打つ。  あの神様は。今の願いを、どんな想いできいていたんだろう。自分の名前が何度も何度も混じっていた、願い。それを聞いて、なぜあの神様は……あんな顔をしているのか。 「……、あの、」  肌寒かったはずなのに、全身が熱い。  なぜ自分は、あんな風に願ったのか。無意識のうちに、なぜ。  織はぐ、と唾を呑んで、鈴懸を見つめる。静かに、織の願いを待つ姿は、神の如く。月光を逆光に、そして輪郭に月光を纏わせて。あまりにも美しいその姿に、織は足がふらつくのを覚えた。そして……ごまかしなどできないのだと、悟った。  ごくり、と唾を呑む。  間隔の短くなってゆく呼吸に、息苦しさを覚える。  目眩を覚えて、そうすればぼやけた視界に星の瞬きと月光がきらきらと宝石のように輝いた。あまりにも美しくて、頭の中の雑念が消えてゆく。  俺の願いは。今、俺が願うのは―― 「……竜神様。……貴方の側に、俺を、連れて行ってください」  引きずられるようにして、その願いを口にする。    刹那。  ふわ、と粒子のような光が織を包んで、その体を持ち上げた。摩訶不思議な現象に織は驚いたが、なによりもその光が美しくて、見とれてしまう。声にならない声をあげているうちに、織はそのまま――鈴懸のもとまで、連れて行かれてしまった。 「……っ」  織の着ていた着物がふわりと風をはらんで浮き上がり、そしてすとんと下りる。ゆっくりと、織は大木の幹に脚を伸ばして座っている鈴懸の上に着地した。 「よう、いらっしゃい、織」 「……っ」  にや、と笑う鈴懸。いつものようにいやみったらしい表情をしているのに、その瞳はあまりにも優しい。目を合わせるのが恥ずかしくて、織がおろおろとしていれば、鈴懸がそっと織の腰に手を添える。 「……まっ、待って……」  織の顔がかあっと林檎のように赤く染まった。そして、こみあげる正体不明の想いに、どきどきとしすぎて、涙まであふれてくる。  そんな、織からすれば「みっともない表情」をしているのに。鈴懸はそんな織を笑うこともなく、じっと熱っぽい目で見つめている。そんな風にまっぐに見つめられては……どうしたらいいのか、わからない。胸が、張り裂けてしまいそう。呼吸がまともにできない。  鈴懸はじっと織を愛おしげに見つめて、目を細めている。面映ゆくて、もどかしくて、織は声をひっくり返らせながら呟いた。 「な、……なにか、言ってよ……」 「綺麗だ」 「はあっ……!?」  鈴懸の手が、織の頬に。するりと撫でられて、織はふるりと体を震わせた。  暖かい。気持ちいい。  いつのまに、こんなに鈴懸に心を許してしまったのか。それを、織は自問自答した。他人に触れられることが、いやだったはずなのに。儀式を通して半強制的に体も心も暴かれて。無理矢理に壁を破壊されてしまってからは、鈴懸への抵抗が一切生まれない。  もともとは、きっと、儀式のせい。儀式のせいで、今、こうして彼にすべてを許してしまっているのだろう。でも……それだけだろうか。自分が今、もっと奥に触れられたいと思っているのは……それだけが理由なのだろうか。 「あっ……」 「織」 「だっ……だめ、……」  ぐ、と顔を近づけられて。何をされるのか、織は悟った。  自分の、鈴懸への想いがわからない。何度か抱かれたことによる疑似的な雌の意識なのか、それとも――もっと違うものなのか。どきどきとどんどん早くなってゆく鼓動は、一体何が説明してくれるのだろう。  ただ、たしかなのは。  今、俺は。  彼からの口づけを、(こいねが)っている。 「……っ、」  あんまりにもどきどきとしてしまって。織は、ついに目を閉じた。  そっと手を鈴懸の胸元に添え、体を、彼に委ねる。  鈴懸はそんな織を見て、ごく、と唾を呑んだ。微かに震えながら、待っている織。あんまりにもいじらしいその姿に、心臓が押しつぶされそうになった。  そっと顔を近づけていって、少しだけ顔を傾ける。暗がりでもわかるほどに真っ赤な織の頬が目の毒で、直視できなかった。鈴懸は意を決して、ぐっと勢いよく距離を詰めたが―― 「――ぎゃああ!」  あとほんの少しで唇が重なる、その瞬間。屋敷のなかから、耳をつんざくような悲鳴が聞こえてきたのだ。 「……白百合の声だな」 「えっ……? え?」  鈴懸ははあ、と残念そうにため息をつきながら、屋敷の方へ視線をとばす。一寸前まで鈴懸の口づけへの期待でいっぱいだった織は、何が起こっているのか判断できなかった。困惑を顔に浮かべながら、きょろきょろとたりを見渡す。 「品のねえ叫び声あげやがって……仕方ない、屋敷に戻るか」 「う、うん……何が、あったんだろう……」 「……さあな」  鈴懸は少々苛立ち気味にもう一度ため息をつく。そして、織を抱き抱えて立ち上がり、木から飛び降りた。  織はぼんやりと鈴懸の顔を見上げながら、冷たい風を浴びていた。あのまま、何もなければ――自分は、鈴懸と口づけをしていたのだろうか。そう考えると、白昼夢をみているような、そんな気分になる。 「……」  ざわざわとざわめく心。その理由がわからず、織はそっと目を閉じた。そっと頬で触れた鈴懸の胸板が自分よりも厚くて、どきっとした。

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