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覚の章7
「咲耶を殺した……? おまえが?」
白百合の口から語られた、衝撃の事実。それに鈴懸は唖然とした。多くの妖怪が焦がれたという、咲耶。彼女と白百合が、それほどに深い関係にあったとは、鈴懸も想像できなかったのである。
「……おまえは、人間でも神の嫁になることができると、知っているか」
「……玉桂が実際に織を嫁にしようとしているんだから、できるんだろうな」
「では、神の嫁になった人間が、人間でなくなることは?」
「……え?」
人間が神の嫁になる。今までも話には聞いたことがあったため、鈴懸はそれを知っていたが、「神の嫁になった人間が、人間でなくなる」とは知らなかった。そもそも鈴懸は今まで誰かに惚れたことなどなく、まして人間を嫁にしたいと思ったことがないため、そこまでの知識はないのだ。
「神の嫁になった人間は、性別に関係なく子を産むことができる。そして、神と同じ寿命を得ることができるのだ」
「……それが、どうしておまえが咲耶を殺すことに繋がるんだ」
神と同じ寿命、つまりほぼ永遠の命。いわば不老不死。多くの人間が憧れてやまないもの……鈴懸は、不老不死についてはそう思っていた。
しかし、白百合は良い顔をしない。
「……望まない婚約をし、一生を玉桂に捧げるのだぞ。自分が堕ちている実感もないまま、死ぬことすらも叶わず、ただ時を腐らせてゆくだけ」
「……その婚約が望まないものだったなんて、なんでおまえがわかる。もしかしたら咲耶は、本当に玉桂と結婚したかったかもしれないだろ」
「織のことを見ても、おまえはそれが言えるのか」
「……え、」
「玉桂の妖術は、どんな純潔をも破壊する。きっと織は、おまえに切ない想いを抱いているだろうよ。それでも、無理やり体を開かれ心を暴かれ、最後にはおまえへの恋心を忘れてしまう。いくら自覚のないまま玉桂に酔おうと、それをおまえは幸福と呼べるのか」
「……でも、それで殺すなんて、」
「――殺さねば、救えない!」
「……っ、」
「神との婚姻は解消不可能だ! 織を救いたいとのたまうのならば、おまえも決断しろ! 織を殺してやれ! 一生玉桂の愛玩人形にされるぞ!」
白百合が、ぎろりと鈴懸を睨みながら叫ぶ。
……白百合は、どんな想いで咲耶を殺したのだろうか。友人であった咲耶を、玉桂の呪縛かは解き放つために、彼女はったいどんな想いで。
鈴懸はそれを思うと、何も言い返せなかった。そうだ、もしも織が永遠に玉桂のもとへ居るか死ぬかしか選べないのなら、自分はどうするだろう。
鈴懸が黙りこんでいれば、白百合はしたり顔で笑ってみせる。見下すようなその瞳に映るのは――一体、誰なのか。
「ふん、どうだ。殺せないだろう? おまえに織は殺せないとわかっていたぞ。それなら織のことは早いところ忘れるんだな」
「……でも、織を忘れるなんてできない。俺は、あいつに……」
「ほお? 忘れるつもりはないか? なら、殺してみるか? 言っておくが、神が人を殺すということはな、少なからず魂が濁り、邪神へ近づくきっかけとなる。本当に妾のようになるぞ? おまえも邪神になるか? 聖なる竜神よ」
「……おまえ、咲耶を殺したから邪神になったのか……?」
「はは、ああそうとも! 妾は咲耶を殺し邪神へ近付いた。咲耶を殺し、本来の力を失いかけた! どうだ、鈴懸。織、たったひとりの人間のために邪神になってみるか? 織を殺した苦しみに永遠にもがいてみるか? 無理だろう、貴様は、所詮消えかけた竜神なのだから!」
迷う鈴懸を、白百合が嗤う。
友人一人を殺し、邪神になってしまったという白百合。自分も彼女と同じようになりたいのかといえば、もちろん違う。しかし……あのまま織を玉桂のものになんてさせたくない。満月の夜に、口付けができなかったあのとき、頬をふわりと染めて恥ずかしそうに睫毛を震わせていた、あの顔が忘れられない。
「……連れていけ」
「なに?」
「俺を、玉桂の所へ連れて行けと言ったんだ、白百合!」
死か、永遠の命か。そのどちらが織にとっての幸福であるかなど、鈴懸が決められることではない。それでも、玉桂のもとで永遠に生きてゆくことが、鈴懸の知っている織が望むことだとは到底思えなかった。
殺すことによって救う。それは、一種の身勝手であるかもしれない。鈴懸が織を殺すことを覚悟したわけでもない。それでも。鈴懸は、織をこのまま玉桂のもとへおいておくことはできなかった。
「……必ず、自分の選択を後悔することになる。如何なる理由があろうと、誰かの命を奪うことは完全なる正解にはなり得ないのだからな」
「……連れて行ってくれ」
「……ふん。神のくせに人間に心を奪われおって……まあ、いいだろう。妾がそこまで其方を止める義理もないからな。連れて行くだけだ、手助けはしない」
迷いながら、それでも織のもとへ行くという想いを曲げない鈴懸。とうとう、白百合は折れたらしい。
白百合はため息をつく。ただまっすぐに織のことを想う鈴懸を、それ以上止めることなどできなかった。
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