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覚の章8

「どうだ、この屋敷から見る月は」  縁側に座って夜空を眺めている華奢な背中に、玉桂が声をかける。すべての側室たちに声をかけるのが、玉桂の日課だ。こうして「攫ってきた新たな側室候補」にも、気をかけてやらねばならない。 「……とても、美しいと思います」 「そうだろう」 「もう、余計なことなど考えない。私は私。美しくあろうなどと、そのようなこと考える必要がない……そう思うと、月が一段と美しく見えます」  振り向いた少女――詠は、玉桂を見て冷たく笑う。彼女の傍には、巨大な覚が二体侍っている。 「貴方は、ありのままの私を美しいと言うでしょう。私はそれがとても嬉しい」 「なにを。キミは美しいじゃないか! 事実を口にしているだけさ」 「だって。みんな、私の力を恐ろしいと言う。鬼のようだと言う……そんな私でも、あの織さまの側にいれば役に立てるだろうと思ったけれど……そんな目的で織さまの側にいる自分が嫌になってくる。「この人ならば、私を頼るだろう」なんて思って、無意識にあの方を私は見下していたの」  夜風に、詠の髪が靡いた。白い頬は月光に照らされて、青白く光っている。それは美しく、妖艶だ。そして同時に――悍ましい。 「織さまは、可哀想なお方だったわ。人の輪から外れたところで、いつもひとり……どんどん心を閉ざしていって、未来を失いかけていた。だから私は安心してあの方のそばにいた。幸福に成り得ないこの方ならば、私を一番に見てくれるって、信じていた」 「……しかし、竜神が現れた」 「そう。鈴懸さまが、織さまのそばにいることが多くなった。……鈴懸さまは、私と違って美しい人だった。力もあって、何より心の綺麗なお方。私のような下心など持っていない。織さまが惹かれるのも、当然でした。織さまは私には心を開かなかったのに……鈴懸さまには、すぐに開いた」  詠の隣に座る覚が、ぶるぶると震える。そして――少し、膨らんだ。  玉桂は更に大きくなった覚をみて、にんまりと微笑んでみせる。 「……嫉妬していたの。私は、鈴懸さまに嫉妬していた。そして、織さまを私だけのものにしたいと躍起になっていた。織さまを愛していたわけでもない、ただ――私という存在を認めて欲しいばかりに。誰にも愛されたことがなかったから……私は、誰でもいい――誰かに私を見て欲しかった」 「ふふ、実に人間らしい。詠、私はそんなおまえが愛おしいぞ」 「……玉桂さまがそう言ってくださるのなら、私は幸せです。私は私を、世界一嫌いだから」 ――少女は、自分を愛せない。何よりも嫌う(にくたい)から見える景色は、醜く歪んでいるのだから。醜く歪んだ世界の中で生きる少女の心は――すでに、腐敗し始めていた。  玉桂は、満月の夜に詠という少女を見つけ出した。碓氷家の屋敷に居候し、そこの御曹司の護衛を司る少女。少女の心にはどす黒い闇が巣食っていたが、その時の少女はそれを認めようとしていなかった。しかし玉桂は、その闇を嗅ぎつけた。たまたま一人でいた少女のもとに近づいていき、侍らせていた覚に少女の闇を喰わせたのである。  そして――そのときに、織を見つけた。少女の闇に惹かれて外界へ降りてきたのだが、思わぬ収獲があったのだった。 「善い。キミがキミを嫌いでも、私がキミを愛してあげよう。自分を否定することはない。存分に、鬼を肥えさせるといい」 「……はい」  玉桂が詠の隣に座る。そして、そっと詠の腰を抱いた。  詠は、たったの一度も玉桂のことを見なかった。  覚が、小さく唸り――そしてまた、膨らんだ。

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