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第3話
「おかえり」
家に帰ると、珍しく母親が玄関で出迎えていた。
「ただいま」
抑揚のない声で返すと、彼女は不愉快そうに眉をひそめた。
革靴からスリッパに履き替えるとネクタイを緩めながら彼女の横を通り過ぎる。
「待ちなさい」
彼女は、それをゆるしはしなかった。仕方なく足をとめ、彼女に目線を合わせる。
「なんですか」
「仕事よ」
「しごと?」
彼女のいう仕事とは、はたしてなんのことだろうか。会社での仕事はあらかた片付けてきたはずだと考えて、はた、と気がついた。
(彼女にとって僕のいう仕事は、遊びだ)
彼女にとっての仕事は、音楽のことだ。それ以外は道楽だと、平気でいってのける人だということをすっかり忘れていた。
「作曲の依頼があなたにきているわ」
「……作曲のですか、姉にではなく?」
「えぇ、あなたに」
これまた、珍しいことだった。天才ピアニストといわれる姉に依頼ではなく、無名のしかも普通の会社員の僕に依頼とはアヤシイにおいさえしてくる。
「……どこからの依頼ですか」
「秋野春吉」
「…………は?」
「しらない?最近有名な若手アイドルなんだけれど、その子じきじきの指名らしいわ」
しらないもなにも、よく知っているし彼女自身もよく知っているはずだ。
「あなた、ずっと遊んでばっかりなんだから、やっときたこの仕事うけるわよね?」
「……あなたが、それを言うのか」
「え?」
小さくつぶやいた言葉は、彼女のもとには届かない。やり場のない怒りに歯を強く噛みしめる。
「すみませんが、先方には断っておいてください」
「はぁ!? どうしてよ、これを逃したらあなたにいつ仕事がはいるかわからないのに」
「僕は、今の仕事で満足しています。それに、僕は彼の依頼を受ける資格がありませんから」
彼女が反論しようと口を開くのをみて、僕は遮るように自室へと向かった。
「ごごっこ遊びだといったのは、あなたですよ」
部屋にはいり、小さくつぶやいた自身の言葉に舌打ちをした。
机の引き出しを開けると少し黄色みがかった五線譜があった。癖の違う文字が五線譜にかかれ、音符がならんでいる。
なにも書かれていないタイトル欄を指でなぞる。
「さよならとまた明日……か」
彼によってつけられた曲名に僕は心の中で謝りながら帰ったあの日に思いをはせる。
あの日、逃げたことを僕は後悔はしていない。
「あなた、最近ピアノを触っているそうじゃないの」
どこでその情報をしいれたのか、母親は学校から帰ってきた僕に会うなりそういった。
「それが、なに?」
「ピアノが触りたいなら学校のより家ので弾けばいいじゃない。ピアノの先生をつけてあげるわ」
「いらない」
「じゃあ、ピアノを弾くのをやめなさい」
どうしてそうなるのか、僕は母親を睨むと彼女は、にっこりと笑ってみせた。
「いつも一緒にいる彼、将来アイドルになりたいんですって?そのためのオーディションも受けてるとか」
秋野のことだ。
「なにをするつもり」
その答えに彼女はにっこりと笑うだけで何も言わない。けれど、彼女は確実に秋野に何かするつもりなのだろう。
「あなたがごごっこ遊びをやめてくれるかレッスンを受けてくれるなら、なにもしないわ」
「…………わかりました」
この日ほど無力な自分が腹立たしく思った日はなかった。
「なぁ、今日は大事な話があるんだ」
秋野は僕に会うなり、嬉しそうにそういった。
「なぁに」
「俺、アイドルのオーディション受けてたんだけど」
「うん」
「きのうさ、通知がきて」
「うん」
「合格したんだ!それで、オーディション合格したらお前に言いたかったことがあって……なんで、泣いてるんだ?」
「え?」
いつのまにか僕は、涙をながしていた。とめどなく溢れる涙を止める術がみつからず、戸惑う。
(……あぁ、そうか、僕は秋野のことが……)
やっと気づいた気持ちに、僕はさらに涙を流す。気付くのに遅すぎた。もう、僕は秋野から離れなきゃいけない。
「ごめん、とめられそうにない」
「いいよ、もっとお前の色んな顔見せて、笑った顔も怒った顔もみたい」
ぎゅっと秋野に抱きしめられ、涙がとまる。心が温かくなる。
「俺だけに見せる顔、見せてよ」
その声が甘く優しく感じて、もしかして秋野も僕と同じ気持ちなんじゃないかと思ったら、また涙があふれてきた。
「今日は、作曲無理そうだな……帰るか」
「……うん」
「また、明日な」
「……さようなら」
こうして、僕は何も言えずに秋野の前から姿を消した。
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