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第140話
目を閉じると、不思議な感覚が広がった。
自分が自分の中から外を見ている。今の自分ではなく、昔の自分だ。まだ小さかったころの自分。
やや古いタイプのキッチンとリビング。
そこには、父が買ってくれた地図が壁一面に貼ってある。クレヨンや色鉛筆で色を塗ったり書き込みをしたりしている。
母が作る温かい美味しいごはんと洗濯石鹸のほのかな匂いがする家だ。
夕食の後、遅い時間に帰ってきた父親に呼ばれた。父は、いつも以上に上機嫌だった。にこにこしながら、話しかけてくる。
「彰也。お母さんのおなかに赤ちゃんがいるんだよ。弟か妹が、冬には生まれるよ」と言ったのだ。「お前はお兄ちゃんになるんだ。家族がもう一人増える。楽しいことが増えるな」
うれしい気持ちが蘇る。すっかり忘れていたあの時の喜び。家中が楽しそうに、暖かい色に包まれていた。
幼稚園や学校で同級生が兄弟の話をしているのを聞いたことがあった。でも、兄弟というのがどんなものなのか広瀬には想像できなかった。それは、どんなものなのだろう、あんなに自慢するんだから、よほどいいものなのだろう、といつも思っていた。
その兄弟ができるのだ。冬になるのがほんとうに待ち遠しかった。
幼い自分は、何度も母親に「妹なの?弟なの?」と質問していた。
母親は生まれないとわからないのよ、とそのたびに優しく答えてくれていた。お母さんのおなかに耳をつけると、鼓動が聞こえてきていた。
忘れていた大事なことの一つだ。確かにお母さんと赤ちゃんは生きていて、広瀬は待ち遠しい気持ちでその鼓動を聞いたのだ。何度も何度も。
その音も感じる。今、生きているようだった。
お母さんは広瀬の頭をいつもなでてくれていた。柔らかな白い手だった。広瀬を抱きしめ、愛しんでくれる人。
いつも思い出そうとしてもぼんやりとしてしまい、霧の向こうに隠れて行ってしまっていた。優しい笑顔の母が、そこにいた。
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