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第141話
それは、夜中のことだった。
大きな物音がして、目が覚めたのだ。自分は子供部屋のベッドの中にいた。
怒鳴り声や悲鳴が聞こえた。なにがあったのだろうか。幼い子どもの広瀬は、怖くなった。心臓がドキドキして息ができないくらいだ。
どたどたと足音がする。両親のとは違う声だ。乱暴な、おそろしい声。
広瀬は、ベッドから出てベッドと床の間の隙間に隠れた。何があったのかわからない。逃げ出したい。
バタンと音を立てて子供部屋のドアが開けられた。部屋の灯りがパチンとついた。
「ガキがいるはずだ!」と声がした。
震えがとまらない。
「どこだ?!」
ずかずかと男が入り込んでくる。
足が見えた。黒い硬そうな靴を履いている。
部屋の中を動き回っているのがわかる。ベッドの布団をはぎ、中にいないのを確かめている。クローゼットを開け、衣類をかきまぜた。
別な声がした。「おい、ガキは殺すな」もう一人の足だ。同じような黒い靴だ。靴の底は黒ずんだべとべとしたものが付いていて、床を汚していく。
「なんでだよ」
「知らん。実験がどうのってことらしい」
「だけど、どうすんだよ」
そう言いながら、その男がふいにしゃがんできた。
こちらをじっと見ている。見つかったのだ。目が合う。
「顔を見られたぞ」
低い声だった。
「大丈夫らしい。そのガキのことは、近藤がなんとかする」もう一人がそう言った。「それより、もう行くぞ。時間がない」
二人の男は、部屋をでていった。他にも人がいた気配はあったが、やがて家の中は静かになった。
長い時間、広瀬はベッド下で震えていた。身体がいうことを聞かなかった。
どれくらいそこにいたのかわからない。音も何もない。
やっと、広瀬は動いた。
ベッドの下から這い出ると、開け放されたドアを出た。
「お母さん?」広瀬は呼んだ。お母さん、どこにいるんだろう。「お母さん?」
変な臭いが家中している。母親を呼びながら廊下を歩いた。それから、リビングのドアの前。
血が流れていた。床一面に広がっている。そして、母が倒れていた。
血の色は赤黒かった。広瀬は母親にかけより、呼びながら揺さぶった。手に、身体中に、血がついていく。赤黒くぬるぬるして、嫌な臭いだ。
パチン、と音がした。
広瀬は全てを思い出した。遠い記憶に沈んでいた何もかもが、鮮明に思い出された。
あの時、やってきた男たちの顔。会話。
倒れていた母親。血まみれの床。
思わず両手を見たが、そこには血はついていなかった。今の、自分だ。家の中にいる。
気が付くと、頬に涙が流れていた。こんな、夢のようなものに泣くなんて。
だが、目を閉じると、まさに今、そこに、倒れている母の姿がある。
あの時の悲しみと絶望が頭の中の全てを消し去っていく。それから、狂いそうになるほどの怒りと憎悪が、支配した。憎しみで身体が痛む。
犯人を捕らえ、罰してやる。この手で、切り裂いてやるのだ。
幼かった時には、自分は怯え、恐怖の記憶から逃げること以外、何もできなかった。
だが、大人になった今は違う。記憶は全て蘇った。取り戻したのだ。そして、今の自分には何でもできる。
あの時の犯人を捜しだすことも、隠れ家から引きずり出すことも、殺すことも。
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