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第179話
車の中は少し冷えていた。身体を縮めながら、広瀬は眼を閉じていた。
気が付くと、記憶のデバイスが作動して、少し前のことが頭の中によみがえってきていた。
意識していたわけでもないのに、不思議だ。
記憶は完全にコントロールできていると思ったのだが、そうではないこともあるようだ。
今ここで、味わうにはあまりにも残酷で甘美な記憶だった。
記憶のデバイスで、東城のことを思い出すのは、初めてだった。
不思議だ。こんな時になって思い出すなんて。
あれは、引っ越して間もない頃だ。
二人の休日があった珍しい日に、朝からずっと、大きなベッドの上で、飽きることなく愛を交わした。
木々に囲まれた静かな家の中、二人きり。
朝日がカーテンから差し込んできていた。彼の日にやけたたくましい身体が、広瀬の目に眩しかった。獰猛な視線も、いくときの切羽詰まったような顔も、明るい日の中で、美しく見えた。
広瀬が求めれば、彼はいくらでも応じてくれ、彼に求められれば広瀬も欲しがるだけ返していた。
長い時間、東城と深くつながって、頭の中は空っぽで、意識があるのは、手や肌の感触だけだった。
彼の大きな手が広瀬の髪をかきあげて、何度もキスを繰り返した。
「お前、泣いてるのか?」と東城に聞かれた。
心配しているのではなく、誇らしそうな声だった。
手が頬をなでている。
「気持ちよかったから」と広瀬は正直にこたえた。
涙で視界はぼんやりしている。何度か瞬きするとポロポロとこぼれていった。
「ほんとうにすごく、気持ちよかったです」涙が出るのは、生理現象なのだろうけれど、感情もゆさぶられる。
身体をぴったりあわせると東城の鼓動が感じられる。少しいつもより早いのも愛おしかった。
「前に、天国に連れて行ってくれるっていってたの覚えてますか?あれ、ほんとうでしたね」
いつもそうだ。
東城といると楽しくて気持ちよくて、満たされている。
自分の人生の中でこんな幸福に会えるとは思ってもみなかった。
東城は、そんなこといつ言ったんだ、バカだなおれは、と耳元でつぶやいている。
「天国にいけたのは俺の方だよ」と東城はいい、強くだきしめてくれた。
東城の身体に自分も腕をからめながら、彼のぬくもりがいつまでも自分の傍にいるのだと、疑いもしていなかった。
広瀬は、冷えた車の中でぎゅっと目を閉じ、無意識に身体をこわばらせた。
自分は、堀口と彼の仲間をこれから殺す。必ず両親の復讐をなしとげる。引き返すことはできない。そのためにならなんでもするし、今までもしてきたのだ。
だが、殺人という重い罪を犯したら、それがどんな理由からであろうと、東城とは二度と会えないことは広瀬にもわかっていた。
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