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第180話

あの、夢のような時間の直後に、すべてが終わり、東城が自分のことを忘れてしまっていたらとよかったのに。 自分も、全て忘れていればよかった。 彼のことも、あの天上の幸福感も、全て。 なにもかも。 もう二度と、あのような時間は、取り戻せないのだから。 忘れてしまえばそれはなかったのと同じことだ。二人のことは、記録もなにも残らないのだ。 あそこにあったのは感情と、肌や手の感触、吐息、鼓動だけだ。 なにもかもがなかったことであれば、失った痛みを味わうこともないはずだ。東城は、自分のことを忘れて、自分などいなかったことになればいいのに。 その一方で、忘れないでいて欲しいとも思う。自分をあんなにまで愛してくれたことを。 よく、東城は、広瀬のことを自分のものだと言っていた。広瀬はいつもそれに反論していた。 だけど、口には出さなかったけど、東城だって広瀬のものなのだ。 そして、彼が広瀬のことを、あの愛し合った時間を覚えている限り、東城は広瀬のものだ。広瀬は、これからもずっと、東城のものだ。それと同じくらいに、彼を自分のもののまましにておきたい。 だが、そこで、今までにないことが起こった。 記憶のデバイスが広瀬の意思に反して動きを止めない。 思い出したくなかった子供のころの両親が殺されたあの夜の記憶が蘇ってきたのだ。 ベッドの下を覗き込む男の冷たい目。 廊下の向こうで血だらけになって倒れていたお母さん。自分の両手も血で真っ赤だ。音も匂いも、あの時のままだ。 これは思い出したくない記憶なのに。 制御がきかないのか。目の前がゆらぐ。頭痛がして、吐きそうだ。憎しみや嫌悪が身体をとりまく。 あの時、何も抵抗できず、ただ、泣くことしかできなかった自分への嫌悪。彼らへの憎しみ。 積み重なった負の感情が、強く支配する。

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