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第36話
声が聞こえてくる。
岩下教授に、デバイスのことを聞いている声だ。どこにあるのか、と質問している。
岩下教授は、はっきりとは答えないでいる。盗聴器の場所のせいだろうか、その場の人間の言葉は聞き取りにくい。何人いるのかもわかりにくい。
男の声だということはわかる。
しばらく、デバイスの場所のことで押し問答をしていたが、相手はあきらめたのか、話がデバイスのテストに移った。どうやら、岩下教授もまた、そのデバイスを利用しているようだった。
途中で忍沼が言った。
「これは、岩下教授が亡くなる数日前のものだ。教授は自分でもデバイスを使っていたんだ。記憶の増進のためではなく、記憶をよみがえらせるために」
会話の中で、岩下教授の言葉が、かすかに聞こえてくる。
デバイスの副作用はどうなったのか、テストするのは危険なのではないかという男の問いに答えている。
「記憶が鮮明に蘇るということは、記憶のかなたにぼんやりとしか残らなくなった者たちが、自分の目の前に現れるということだ。生きていることと同じだ。それがどれほどうれしいことか、想像くらいはできるだろう」
彼は、自分の子どもの話をした。
20年以上前に実験の参加途中で水の事故で亡くなった娘だ。
「私の娘は、かわいらしい子だった。年の割に背が高くてすらっとしていて、髪を長く伸ばしていてね、妻が毎朝とかしてむすんでやっていた。手をつないで近所を散歩したこともある。あの子は子供向け番組の歌を歌っていたよ。このデバイスを使うと、まるで、今、この場でおこっているように、そんなことが再現されるんだ。正確な映像記録をみているようなものだ。映像だけじゃない。娘の柔らかい小さな掌の感触や、歩いた道の脇に咲く花の匂い、曇り空までもが完璧によみがえる。思い出という言葉で片付けられていたことが、すべて、実際に何度でも体験できる」
岩下教授はそう言った。
「私は娘に会うことができた。そして、会いたいときにはいつでも会うことができる。これからもずっとだ。これを、一度体験したら、人生観が変わる。このデバイスを使えば、人は死ななくなる。少なくとも、記憶の中では生き続ける」
忍沼は、そこでICレコーダーの再生を停止した。
広瀬は聞いた。「自殺は、副作用によるものですか?」
忍沼は複雑な笑みを浮かべた。「さあね。僕たちは当日の音声データも持っている。聞いてみたいだろう?前も言ったけどあきちゃんが僕たちの仲間になるなら、聞かせてあげるよ」
東城が広瀬を見ている。彼は、無言だったが、広瀬に返事をするな、と表情では言っていた。
だが、広瀬は忍沼に聞いた。
「仲間になるというのは具体的にはどういうことですか?」
「一緒に情報を集めてほしい。僕たちは、この実験の黒幕を探している。おそらく、今でも、黒幕でいるはずだ。警察庁か、最終的なトップはもっと別で、政治家かもしれない。君のお父さんやお母さんを殺したのは、その黒幕だ。協力して、探してほしいんだ」
忍沼は、ICレコーダーを広瀬に差し出した。
「この岩下教授の音声の一部は、今あげるよ。さっき聞いたこと以外もいろいろと入っている。でも、岩下教授の件は事件じゃなくなったから、あきちゃんは仕事としては関われないだろう。これから先は、個人の活動になる。この音声をよく聞いて、考えてみて」
忍沼の手のひらにあるICレコーダーは黒く小さな塊だった。
今の広瀬たちとの会話だって、彼は録音しているのかもしれない。それくらいの保険はかけるだろう。
広瀬は、ICレコーダーを手に取った。
忍沼は微笑みを浮かべた。「また、今度、連絡するね」そして、東城を見る。「さようなら、東城さん」
忍沼は融の背中をそっと押し、歩き去っていった。融は2回ほど振り返りするどい視線でこちらを見ていた。
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