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第59話
忍沼と上野のバーで別れたのは終電が出た後だった。広瀬はタクシーを使って家に戻った。
先に寝ていると思っていた東城は、起きて広瀬を待っていたようだった。リビングで静かに座っていた。
広瀬が入ると、彼は顔を上げた。「おかえり」という声は穏やかだ。
だが、続いた口調はそうでもなかった。「どこに行ってた?」と彼は言った。「お前に連絡取れないから、宮田に仕事忙しいか聞いたんだ。そしたら、とっくに帰ったって返事だった」
広瀬は東城の前に立った。「上野で忍沼さんと」と正直に答えた。
「忍沼と会ったのか?」と聞く声は、緊張をはらんでいた。
広瀬はうなずいた。
東城が嫌な顔をするのは織り込みずみだ。嘘をついたりごまかしたりする気はない。
「そうか。忍沼とは、もう、一人で会うな」
広瀬は、返事をしなかった。
こう言われることも予想はついている。いや、もともと東城は一人で会うなと言っていたのだ。
東城はじっと広瀬を見ている。返事や同意を待つ気はないようだ。
「忍沼を調べた。忍沼は、犯罪者だ。たとえ話とかじゃないぞ。正真正銘の犯罪者だ。奴は、10年前にハッキング行為で逮捕されている。執行猶予つきだが有罪判決がでてる。捕まったのは軽微な不正アクセス禁止法違反だ。当時勤めていた会社のアクセス権限を盗んで、悪用した程度だ。だが、本当は、もっと別なことをやっているらしいと睨まれていた。オンラインバンキングの不正操作を疑われていたが、立件はできなかった」
「別件逮捕だったということですか?」
「会社のアクセス権を悪用したのは事実だ。告訴もされている」
「10年前の案件ですよね」
「今はすっかりやめてるなんてことはないぞ。巧妙になってるだけだ。オンラインバンキング関係だけじゃない。企業の重要機密を盗み、売っているという話もある。その道じゃ、有名人らしいぞ」
「誰が言っていたんですか?」
「いろいろだ。俺につてがあることくらいわかるだろう。もう、忍沼には会うな。奴はな、産業スパイそのものだ。今だって、どこかで誰かの情報を盗み見してるんだ」
広瀬は黙っていた。同意することはなかった。だが、忍沼がいろいろなことを知っていた理由は分かった。腕のいいハッカーなら広瀬のことを知ることは簡単だったろう。
「でも」と広瀬は言ったが、すぐに遮られる。
「お前、俺がどんな部署で仕事してると思ってるんだ」
「改正不正競争防止法による、産業スパイの特別チーム」と広瀬は答えた。
東城はイラッとした顔をする。「それがわかってて、忍沼と会うのか?俺の仕事なんだと思ってるんだ」
「東城さんの仕事と俺が忍沼さんと会うのは、全く関係がないことです」
「関係ない?」
「そうです」
「お前なあ」険しい表情だ。
「忍沼さんが、産業スパイをしているという確たる証拠はあるんですか?」
「そんなもの、あればとっくに逮捕してる」
「では、やはり関係ないはずです」
「いい加減にしろよ」と東城はいう。
広瀬は黙った。東城の目を見返す。
「俺を挑発するなよ」
「挑発はしていません」
広瀬は我慢して視線をそらさないようにした。
長い時間の後で、東城は深いため息をついた。「俺がどういっても、お前は好きにするんだな」
「忍沼さんが犯罪者だという証拠がわかったら、東城さんにお知らせします」
「ああ、そうかよ。それは結構なことだな」そういうと東城は立ち上がり、ドアを大きな音を立てて開け閉めし、出ていった。
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