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第69話

しばらくして部屋は静かになった。忍沼はうとうとしているようだった。広瀬は起こさなかった。 音をさせないように立ち上がり、部屋の中を見て回った。 小さな本棚には数学の本が何冊か入っている。他には音楽家の伝記や平安末期の歌人の歌集。 机の近くにはパソコン以外にスキャナがあった。プリンターはない。そういえば、プログラム関係の本はなかった。 家族を思わせる写真は何もない。 キッチンの棚には、レトルト食品、カップ麺が数個ある。食器も調理器具も数点だ。ごみ箱には、弁当の空箱が捨ててある。 そこまで見ていたら、ドアがガチャリと開いた。ゆっくりと黒い影が入ってくる。元村融だった。 黒い薄手のコートにピッタリした黒いジーンズ、濃い緑色と茶色のシャツ。こちらをみた彼の眼は黒く暗い。 広瀬は黙って彼を見返した。 「拓実は?」と融はあいさつもなく広瀬に聞いた。広瀬はベッドを示した。 「風邪をひいて、休んでます」と答えた。 元村はベッドの近くに行き、かがんで忍沼の様子をみた。そして、顔をあげる。 「よく寝てるな」 「風邪薬飲んでいたので」 「そうか。うなされてなかったか」 「いえ」うなされるとは何だろうか、と広瀬は思った。そこまで具合が悪そうでもないのだが。 「拓実は、悪夢を見るんだ。実験のせいで、普段から思い出したくもない記憶が鮮明にでてきて、その場にいるような感覚になることがあるんだが、自分でコントロールする方法を研究してて、日中は大丈夫になりつつある。だけど、眠るとコントロールできない。いい記憶も悪い記憶もでてきて、それが、悪夢になるらしい」と元村は説明してくれた。 広瀬が思ったよりも彼は饒舌だった。 「彰也、お前も、悪夢を見るのか?」と聞かれた。 広瀬は首を横に振った。 「実験の被験者でも副作用はそれぞれだからな。俺も悪夢は見ない。拓実の話は理解はできるが、実感はできない」と元村は言った。 彼は、ベッドの脇にあぐらをかいて座ると広瀬を見上げて聞いてくる。 「それで、今日は何の用だったんだ?拓実が、お前から連絡があったってうれしそうにしていたけど、別に、こいつに会いたくて来たわけじゃないんだろ」 「研究所の近藤理事が行方不明です」と広瀬は答えた。

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