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第85話
岩下教授の恩師で、記憶の実験のリーダーだった滝の研究所は千葉県の海沿いの街はずれにあった。わざわざ人里離れたところを探して建てられたかのような場所だ。周囲にはほとんど街灯はなく、夜の訪問だったので、錆びた黒い門をあやうく通り過ぎるところだった。門の奥には木々の中に鉄筋コンクリート造りの2階建ての建物があり、数か所の窓からぼんやりした明かりみえる。
広瀬は、門の前に車を停めて、門の脇にあるインターフォンを探し出し、ボタンを押した。建物でそれが鳴っているのかどうかもわからない。しばらくして返事がないので、再度鳴らしてみた。
やっと、ブツッという音がした。
「どなたですか?」という声が戻ってくる。女性の声だった。名前を名乗り、滝先生と約束をしていた旨を告げると、しばらくして建物から中年の女性がでてきた。白い髪を短く切り、厚手のセーターを着ていた。
彼女は門の鍵を手で開けて、開いてくれた。
「どうぞ」と言われる。
広瀬は、彼女と共に灰色の建物に入った。
建物の中は人の気配がなかった。ここで何か実験をしているのだろうか。とてもそうとは思えない音のないヒンヤリとした空気だ。
中年女性に案内された部屋の中には誰もいなかった。
応接室というわけではなさそうだ。
そこには、書籍や電子部品、薬品の瓶がごった返している。山と積まれた学会誌や雑誌は新しいもので、机の上にあった大きなパソコンも最新型だった。研究所は稼働しているのだろう。広瀬は、自分のポケットに入っているペン型のカメラで壁や部屋全体をできるだけ撮影した。
それから、壁の近くに行ってみる。
壁には、何かの表彰状のようなものが何枚も飾られている。日本語のものと英語のもの、何語かわからないものがあった。年代を見ると、ほぼ20年から30年前のものだ。滝は当時、かなり優れた学者だったのだろう。
額のガラスにはうっすらと埃が付いている。
さらに、表彰状の下には写真が何枚も飾ってある。若い頃の滝教授が表彰されている写真があった。
他にも集合写真が何枚かあった。
広瀬のちょうど肩ぐらいの位置に飾ってある写真にかがんで顔を寄せてみた。それは、忍沼がもっていたあの写真と同じときのものだ。
子どもたちと大人たちが写っている。並んで撮影されているのではなく、集合したてのところを撮ったようだ。
写っている人数は多い。人物は小さいのでわかりにくいが、広瀬は、そこに自分を見つけることができた。大人数の右端にいたのだ。さらに、自分と手をつないでいるのは、父だった。自分は父を見上げているが、彼は厳しい表情で集まった人間たちを見ている。写真を撮られていることに気づいていないようだった。
写真の中の人物を丹念に見ていくと、忍沼がいた。元村らしい子供もいる。さらに、若い頃の岩下。滝自身。
ふと、見たことがある顔があった。誰だろうか。学生だろうかずいぶん若い男だ。白衣を着ているから研究者なのだろう。すぐには誰か思い出せなかった。
じっと写真を見ていたら背後でドアが開く音がした。
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