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第86話

振り返ると立っていた滝は、想像していたよりも元気そうな老人だった。背が高く痩せ気味で、髪の毛はすっかり白いが血色がよい。 広瀬は夜遅くの来訪をわびながら挨拶をした。 「今日でよかった。明日は一日中外出しているところだった。来週からは海外でね」と言う声は、はりがあった。 今何歳だろうと広瀬は数えた。多分、70歳にはなっているはずだ。 滝は、広瀬に椅子をすすめた。自分も本を押しのけて机の前の椅子に座る。 それから広瀬の顔をしげしげと見て、微笑んだ。 「広瀬彰也くん、だね。広瀬信隆さんの息子さんだ」と彼は言った。 そのことをわかっているのが誇らしいような声だった。 「はい」と広瀬は答えた。 「君のことはよく覚えているよ」と老研究者は言った。さきほどまで広瀬がみていた壁の写真を指さす。「そこにも写っているだろう。びっくりするほど可愛らしい子供だった。今は、お父さんにそっくりだね」 「この写真は?」 「夏休みを利用して合宿をしたんだよ。研究者とその家族でね」 「実験をしていたのですか?」 滝教授はうなずいた。「そうだ。泊まりでね。その写真の場所はこの研究所の近くにあるキャンプ場だ。当時から私はここに土地を持っていたから、丁度良いと思って合宿所にしたんだ。海にも近くて、ちょっと行くと確か当時は小さな水族館と遊園地もあった。子どもには楽しい場所だ。遊びながら実験に参加してもらったんだよ。子どもが多い実験だったからね。我々も工夫した方がいいと思ったんだ」 あっさりとした話だった。滝は、忍沼が実験をどう思っていたのか知らなかったのだろうか。 「子供向けのアクティビティの計画は若い研究者がしていたよ。小学生の子の夏休みの課題を手伝ってあげたりもしていた」と滝は続けて言った。 「子供の歯の奥にデバイスをいれる実験だったと聞いています。記憶の定着を助ける実験だったとも」 「そうだ。記憶の定着は私のライフワークだ。その話を聞きに来たのかね?」 「はい。ところで、岩下先生が亡くなったのは、ご存知ですか?」

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