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第88話

「記憶の実験になぜ警察庁の父が研究費を?」 「君のお父さんの目的は冤罪の防止だった。人間の記憶は曖昧だということは君も知っているだろう。本当にあったことをないように思い、なかったことをあるように思ってしまう。しかも、何が正しいのか、客観的にはなにもわからない。最近でこそ映像や音声のデータが増えているが、それでも、全てをデジタルデータが記録していることはない。結局、捜査は記憶に頼る部分がでてくる。だが、それが、誤りや誰かの誘導だったら、そして、それがわからないままだったら、悲劇にしかならない。信隆氏は、記憶の定着や客観視に興味があった。1か月前の出来事を、今起こっているようによみがえらせることができたら、どれほど、捜査に役立つか、ということだ」 広瀬は納得した。それで、父はこの研究に足を踏み入れたのだろう。 「子供を被験者にしたのはどうしてでしょうか?」 「被験者は、子どもだけではないよ。各年代層別にいた。年代も性別もいろいろだ。子どものデータもとりたかったんだ。ただ、どうしても、デバイスを体内に入れるので、保護者の同意が必要で、対象は、少人数の限られた子供になってしまったがね」 滝の目はだんだんと輝き、説明は熱を帯びる。 「論文には書かなかったが、私が開発していたデバイスは、天才を作ることができるものだったんだ。人間の脳を最大限に活性化することができるものだ。子どものころから使えば、その能力の活性化に限界がなくなる。あの時の実験の被験者の中には、中学生になってアメリカの大学に飛び級で行った女の子もいる。飛躍的な記憶力増進だけでなく、他の知的能力も信じられないくらいに高まったんだ。論文に書かなかったのは、残念ながら被験者の数が少なかったのと、研究者仲間の子どもが多くて、どうしても遺伝的要素を除外できなかったからだ。頭の良い親の子どもが頭がいいのは当たり前だと言われかねなかったからな」 「自分も実験の被験者だったということは、父も、実験に同意をしたんですよね?」と聞いてみた。 「もちろんだよ。信隆氏は、実験を高く評価してくれていた。考えてもみたまえ。自分の子どもが天才になるんだ」 天才に、広瀬は頭の中でその言葉を反復した。 父はそんなことを自分に求めていたのだろうか。 父自身、天才と言われるほど頭のいい人だったとは聞いている。同じものを、息子の自分に求めたのだろうか。 「君は、まだ若いが、結婚はしているのかね?」と急に聞かれた。 「いえ」 「そうか。結婚して、子どもができたら、わかる。いや、巷の英才教育や早期教育みたいなものに大金をつぎ込む親は多いのをみてもわかるだろう。親というものは、子どもが、誰よりも優れ、特別な人間になることを望むものなんだよ。自分の子どもに特別な素晴らしい人生を贈れるとしたら、その機会があったら、みすみす逃す親はいない」 そう言われると、心のどこかが痛んだ。 父もそう思ったのだろうか。 広瀬を特別な人間にしたかったのだろうか。 岩下教授もそうだったのだろうか。他の子どもの親たちも。忍沼や元村の親も、そうだったのだろうか。子供の幸せを願って、実験に参加させたのか。

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