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本降りになったら #5 side S

西田のおじさんの家に来て三日が過ぎた。それでも未だ、僕の心は晴れることもなく、執筆をする気も起きず、何も考えられず、何もしたくなかった。おじさんは週に数日、仕事へ出掛ける。彼が家を出ると、一通りの家事をこなし、それが終わると、かつてはお嬢さんの部屋、今は納戸と呼ぶにほぼ等しい部屋で、置いてあった本に何となく目を通し、眠り、おじさんが帰宅の頃するには、夕飯や風呂の仕度をした。 「ただいま〜真祐君?」 以前はホテルマンだったというおじさんは、退職後、お景おばさんの経営するフレンチレストランで、支配人代理の様な仕事をしていた。その完璧な接客振りからヘッドハンティングされたのだ。しかし、律儀なおじさんはホテルに留まることを選択した。それでも諦められない将吾おじさんは、彼の退職を待って、再度打診をした。あまりにも畑違いな話に、西田のおじさんは何度もその話を断ったそうだ。それでも、諦めない将吾おじさんの熱意にとうとう根負けし、ランチタイムだけならとその話を承諾し、今に至る。 「おかえりなさい。」 「遅くなってごめんよ。」 「いいえ。お風呂…沸けていますが…」 「ありがとう!でもね、そんなに気を遣わなくても良いんだよ。そうそう、今日はおみやげがあるんだ。」 おじさんはそう言って、紙を一枚差し出した。そこには絵が描かれていた。言わずもがな、この絵を誰が描いたのかすぐに分かった。のびのびとして、カラフルで、笑い声が今にも聞こえてきそうで…こんな楽しげな絵を描く人物は、僕の周りでは一人しかいない。 「冬葉…ですね…」 「うん。今日ね、社長と一緒にハンバーグを食べに来たんだよ。当たり前だけど、大きくなったね〜どんどん冬真君に似てくる。」 「元気…でしたか?」 「うん。とっても!随分と良い色に焼けていてね。社長曰く、毎日のように友達と遊びに出掛けていて、社長宅にはご飯と寝るためだけに帰る様なものだって。それから昨日、学校のプールの検定試験で飛び級したんだって!すごいよね!」 描かれているのは、家族で海水浴に出掛けているところ。海で泳いでいるのは四人。砂浜には二人。砂浜にいるのは冬真と僕。二人は寄り添って、海にいる家族を見つめていた。二人共笑顔だった。僕はこの絵を見ているのがとてもツラくて、思わず目を逸らした。 「そうですか…小学生らしい夏休みを過ごしているんですね。」 「君も大学生らしい夏休みを過ごしてみたら?」 「えっ?」 「まぁ、社長宅の様に立派な家じゃないけど…何も考えずに、したいことをしたいようにして、ただ夏を謳歌する。どうかな?」 「……」 「誰よりも冬真君が一番それを望んでいるよ。」 「冬真が?」 「うん。実はね、今日、仕事帰りに病院へ行ってきたんだ。起き上がることは出来なかったけれど、話は出来たし、顔色も随分良くなってたよ。君が今、我が家にいることを話したら、図々しいことは承知の上だが、出来るだけ長い時間、君を私に預けたいって。理由は言わなかったけれど、きっとそういうことなんじゃないかな。」 「……」 「ずっとここにいる必要はないし、僕の世話をしなくてはならない義務もないよ。君は自由なんだ。ここを拠点にして、どこかへ旅に出ても良い。とにかく思い付くままに行動してごらん。」 「そんな資格…僕にはなくて…」 「資格?」 「僕は…逃げてはいけない物から逃げて来ちゃったから……しかも…暴言まで吐いて…」 それ以上何も言えなかった。涙を堪えるので精一杯。すると、おじさんは急に高らかに笑い始めた。あまりにも場違いな大笑いに、僕は唖然とし、涙もどこかに消えてしまった。

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