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女神の呟き #1 side A

ずっと流され続ける人生だった。考えることも運命に逆らうことも、とっくの昔にどこかに置いてきた。『起きていたら死んでいた』なんてことが起こらないだろうかと本気で考えた時期もある。もちろん、そんなことは誰にも言ったことはない。 『和臣、お茶だけは丁寧に入れなさい。』 野良猫同然の俺を拾ってくれた、バーのマスターはそう言った。 『お茶?何故です?そんなのコンビニで買えるじゃないですか?それなのにわざわざ…』 『だからだよ。それがこの先、お前さんを救ってくれるはずだよ。』 『はぁ?』 『今は分からないだろうけど、いずれ分かる時が来るさ。』 白髪のマスターは上品に笑いながら、いつもそう言ってたっけ。その答えは何だったんだろうか。あれからもう数十年。その答えは未だ見つかっていない。答えを聞くにも、マスターは随分昔に旅立った。しかし、彼に感謝するなら、間違いなく今だろう。目の前の二人は俺の淹れた茶をたいそう喜んでいるから。 「ねっ!おいしいでしょ?とうまパパ!」 「うん。」 「和くんのおちゃづけも、とーってもおいしいんだよ。この前、おとまりした時に作ってくれたの。ふゆくん、いーっぱいおかわりしちゃった。ねっ?和くん?」 「うん。」 「ごめんね…和臣くん。疲れてるだろうに…うちの子達が入れ代わり立ち代わり…しかも今日は…僕の世話まで…」 「いえ、そんなことありません。返ってご迷惑じゃないかと気が気でありません。」 「まさか!君には本当に感謝してる。ここも是非実家だと…思ってね。君のペースで…いつでも来ていいんだよ…」 「実家…ですか…?」 「うん。まぁ、何とも頼りないけれど。」 目の前の美しい人は、小さく微笑んだ。初めてここを訪れた時と比べると、今日は随分調子が良さそうだ。今日は2度目の訪問で、初めて里中家を訪れてから、間もなく2か月が経とうとしていた。あの日、俺は夕飯だけでなく、冬葉君と敷地内の温泉に出掛け、葉祐さんと酒を酌み交わし、宿まで世話になった。他人の家に泊まるなんて、今までの生活では考えられないことだった。更に考えられないのは、2週間に1度の割合で、里中家の子供達が我が家を訪問することだ。最初にやって来たのは直生君で、その名の通り実直な彼は謝罪にやって来た。私は謝罪には及ばないと彼を招き入れ、話と酒を酌み交わした。話してみると、彼はとても気持ちの良い青年で、彼なら真祐君を幸せにしてくれると確信した。生憎、客用の布団を持っていなかったため、彼を家に泊めてやることが出来ず、直生君は近くにあるという実家に帰って行った。俺はこのことをひどく後悔し、次の日、一目散にホームセンターへ出掛けた。その翌々週に来たのは、直生君と冬葉君で、二人は先日のお礼にと、予約すら何か月待ちという市内でも有名な和食レストランへ俺を連れ出した。 『まさか?ここは予約だけで何か月も先まで埋まってるんだぜ?』と言う俺に、直生君は『まぁ、うちの天使に任せてよ。冬葉?』と言うと、冬葉君はトコトコと一人で店内に入って行った。間もなく、品の良さそうなおじいさんが一人、冬葉君の手を引いて店から出てきた。 『赤城様ですね?お待ちしておりました。さぁ、どうぞお入りください。』と入店するよう促された。何故、このおじいさんが俺の名前を知っているのか疑問に思った。しかし、通された離れの部屋の美しさと、ずらりと並んだ最高級の料理を前にして、その疑問はすっかりどこかへ消え去ってしまった。今度は財布の中身を心配したが、おじいさんは代金を一切受け取らず、それどころか、『あなたならいつでも大歓迎です。是非またいらしてくださいね。予約なしで大丈夫。』と笑顔で言った。自分の身に何が起きているのか全く分からなかった。ただ、分かっているのは、このおじいさんが冬葉君をとても可愛がっていて、冬葉君もまた、このおじいさんにとても懐いているということだけだった。 「和臣くん……和臣くん?」 「はっ!えっ?」 走馬灯のように脳内を駆け巡る2か月間の出来事から俺を引き離したのは、冬真さんの声だった。 「おかわり…頂いてもいいかな?」 「あっ、はい。」 「ごめんね…君の淹れてくれたお茶は…本当に美味しい…」 「ありがとうございます。」 「何か…コツがあるのかな?」 「いえ。教えを守って来ただけで、特には。」 「教え?」 「はい。」 バーテンダーの師匠でもあるマスターとのやり取りをかいつまんで話すと、 「分かるな……何となく…だけど…」 と冬真さんは小さく呟いた。

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