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春の日の音楽 #1 side A

「分かる…んですか?マスターの意図が…」 「うん…漠然とだけど…」 言葉に出来ない俺を、その人は艶めく琥珀のような瞳で見つめ、小さな微笑みをくれた。そして息子を呼んだ。 「冬くん…」 「なあに?」 「さっき、冬くん用に淹れてもらった魔法瓶のお茶…葉祐に譲ってあげてくれないかな?そろそろ…休憩すると思うから…」 「うん。いいよ!ふゆくん、おみせにとどけてくる!」 「ありがとう。車に気を付けて…」 冬葉君は魔法瓶を自身の小さなリュックに入れ、『いってきまーす』とリビングから勢いよく出て行った。 しばらくリビングをドアを見つめた後で、冬真さんはまた俺に小さく微笑んだ。 「お茶を淹れるっていう作業で…君を繋ぎ止めておきたかったんじゃないかな…」 「繋ぎ止める?」 「分かるんだ…君と僕…ちょっと似ているから…君……起きてたら死んでいたってことが…自分の身に起こらないかなって…思ったことあるでしょう?」 「……どっ、どうしてそれを?」 「うふふふ…やっぱりね。分かるんだ…僕もそう思ってた時期があるから…」 「冬真さんも?」 「うん。それも随分長い間。生きているつていうより、理由もなく生かされている…呼吸をしているだけ。ただただ辛い時間だけが…いたずらに流れていく…君もそうだった?」 「はい…」 「どうにかしたいって…思ったんだろうね…マスター。だから、君の日常の中に…面倒なことをひとつ…組み入れたんだ。」 「それがお茶を淹れること…ですか?」 「うん。何でも良かったんだと思う。割と頻繁にすることで…続けるには結構面倒な作業…それがマスターには…お茶を淹れるってことだったのかもしれないね。君の言う通り…お茶は飲もうと思えばどこでも簡単に飲める。急須で淹れるなんて…男性には割と面倒な作業でしょう?マスターは君の性格を考慮して…勧めたんだと思うよ。君なら必ず…実行に移すと思ったんだ。真面目な君なら…そこからもっと考えると…思ったんじゃないかな?」 「真面目かどうかは分からないけど、確かにそうです。間もなく、初夏に入ったせいもあって、冷茶にするにはどうしたらベストなのか…そんなこと一生懸命調べました。それから…茶葉を変えてみたり…」 「そうやって…君が何かに一生懸命になることで…仄暗い方へ歩まないようにしたんじゃないかな…君のことを本当に…理解してくれた…優しい人なんだよ…マスターは。君をとても…愛していたんだよ。」 冬真さんは隣に座るように手招きをし、おずおずと隣に座った俺の頭を、自身の肩口に引き寄せた。 「君がここにいてくれて…本当に良かった…君の苦しみはよく分かるよ…心の底から。一人でよく頑張ったね…ありがとう…僕達家族を受け入れてくれて…」 そう言って、俺の右手を自身の膝の上に乗せ、左手で優しく包み込み、それから、ポンポンと心地よいリズムを奏で続けた。最初に訪れた時と変わりない冷たい手だった。けれど、このリズムは、まるで春の日の音楽のようにとても優しい。こんな風に無条件に誰かの愛をもらったことがない俺は、もう涙を止めることすら出来ない。 「す…すみません…なんか…」 「いいんだ…冬葉曰く…『和君は真ちゃんのお兄ちゃん』だそうだから…君も僕の息子てしょう?」 「あは。こんな髭面の息子…良いんですか?」 「もちろん。」 冬真さんの左手が奏でるリズムは、更に優しさを増していく。この穏やかな春の日の音楽に身を任せ、たゆたうことをもう少しだけ許して欲しい。何せ初めての経験なのだから…

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