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雨の日の冬真 #3 side K

予想だにしないことが起こった。 葉祐さんと俊さん、二人から『航』と呼ばれたこの医師は古くからの付き合いで、今は冬真さんの主治医。彼の話に誰もが言葉を失い、沈黙が続く。 「記憶が···ない···とは···?」 やっと口を開いたのは俊さんで、いつも冷静なこの人ですら動揺を隠し切れないようだった。 「ちょっと言葉足らずだったね。ごめん。もちろん基本的なことは覚えてる。自分が誰かとかさ。でも、一時的な記憶、倒れる前の記憶がすっぽりないんだ。どうしても思い出せないみたいなんだよ。『今朝はちょっと気分が優れなくて、葉祐と一緒に朝食は食べなかった』って。これは合ってる?」 医師は葉祐さんに確認した。 「ああ、無理に起きようとしていたから、『無理に起きなくて良いぞ』って言って、それから『朝食はテーブルの上に置いておくから、食べれそうなら食べて、ダメそうだったらミルクだけでも飲め』って···」 「うん、ここは冬真の話と合ってる。」 「しばらくして俺は店に出掛けてしまったから、そこから先は···」 「うん、大丈夫。ここも合ってる。しばらくして葉祐は店に行ったみたいって。それからトイレに行って、帰りにミルクを飲もうって思ったらしいんだけど、テーブルの上に軽くトーストしたイチゴジャムサンドを見つけて、美味しそう、食べようかなって思ったって。このトーストは?合ってる?」 「ああ。」 「それから座ってトーストを食べたって。問題はここからでさ。自分は朝食を食べていたはずなのに、気が付いたら床で寝ていて、和くんもいたって。冬真の中では朝食を食べてる記憶で終わってるだよ。」 「待ってください。それって変ですよね?もし、朝食を食している時に倒れたのなら、私が見つけた時、座ったままテーブルに伏せているはずです。」 「そう、赤城さんのおっしゃる通りです。赤城さんから伺った発見時の状況とここが合わない。何度聞いても同じことを繰り返すばかり。脳波も異常ないし、体の方も取り急ぎケアが必要なのは、倒れた時に負傷した打ち身ぐらいで、心臓の方はこの季節にしてはかなり良い方。」 「一時的に思い出せないってことなんじゃ···」 葉祐さんが言うと、俊さんがすかさず言う。 「いや、多分違う。もしかしたら···何か見たくない物を見たのかも。見たくない物を見て、潜在的にあえて思い出さないように働きかけてるとしたら?そうするとかなり厄介だ。」 「さすが俊介さん。あくまでも仮説に過ぎないけど、もし、俊介さんの言う通りだったとしたら、記憶をごっそり無くしてしまう程のものだったということになる。それを思い出してしまった時···」 「冬真はまた心のありとあらゆる場所に鍵をかけてしまうかもしれない···」 呟くように言った俊さんは、すっかり顔色を失い、葉祐さんは今にも泣きそうな顔をしていた。

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