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gelosia #1 side N
若先生の家は診療所の離れの二階。通された部屋には机とベッド、本棚に以前は病院の待合室にあったと思われる一人掛けのソファーと小さいテーブルがだけが置いてある、実にシンプルな部屋だった。
「さっ、そこのソファーに座って。」
先生はコーヒーサーバーからコーヒーを淹れ、俺の前に差し出した。
「ありがとうございます。ここは先生の部屋?」
「まあね。今は別に家があるんだけど...そっちにはたまに帰るぐらいで、ほとんどここで寝泊まりしてるかな。」
「家は遠いんですか?」
「ううん。ここから五分ぐらい。」
「何で帰らないんですか?近いのに。」
「奥さんがね、僕より忙しい人でね。N大病院の研究所で働いてるんだけど…研究室で暮らしてるって言っても過言ではないぐらいの人なんだ。奥さん曰く、僕は生活スキルが著しく乏しいらしくて...自分がいない日はここで世話になるようにって言われてるの。じゃないと家が大惨事になるんだって。」
「大惨事?」
「ぐじゃぐじゃに汚してしまって、取り返しがつかないんだってさ。ところで、君は真のどこが良かったの?」
突然のことで思わずコーヒーを吹き出しそうになった。
「なっ、なん何ですか?急に!」
「単なる興味。」
「理由なんてあります?人が恋に落ちるのに。」
「ひゅ~ひゅ~格好いい~あの堅物が落ちたのも何となく分かるような気がするなぁ。」
「先生...俺をからかうために呼んだんですか?」
「ごめんごめん。まぁ、お遊びはここまでにして...ちょっとこれ見てくれる?」
差し出されたのは二冊のアルバムだった。上に乗っている方を開いてみると、そこには冬葉が写っていた。しかし、何となく違和感がある。
「冬葉?でも...」
「でも?」
「冬葉だけど、冬葉じゃないみたい...」
「どうして?」
「冬葉はこんな顔しない。」
どの写真を見ても、基本笑っていない。普段カラカラとよく笑う冬葉とはほど遠い。全体的に悲しげで、すぐに消えてしまいそうな感じ。
「ご名答!それは冬真。冬真の小さい頃。」
「えっ?」
「そっくりだろう?」
「はい。」
「だけど...全然違う。」
「はい。」
「二冊目も見てみて。」
促されて二冊目のアルバムを開くと、少し大きくなった冬葉と、知っている顔にぶつかる。
「真?」
冬葉の隣には俺が知っている小学生時代の真が写っていた。二人はとても楽しそうで、今にも写真から笑い声が聞こえてきそうだった。
「真...なワケないか...葉祐さん...ですか?」
「そう。こっちも笑ってしまうぐらいそっくりだよね。もう少し先を見てくれる?」
言われた通りページを先に進める。途中、気になる写真を見つけたが、もっと先と言う先生の言葉に従い、ページを先に進めた。その先には、若先生とおぼしき少年と青年期の冬真さんの写真があった。
「何か...」
「うん?」
「子供の時より...更に白くて...消えてしまいそうだ...雪みたいに。」
「そうだね。この頃は生と死の細い境界線を綱渡りしているみたいだった。ここに担ぎ込まれることもしょちゅう。冬葉が生まれる前後もこんな感じだったかな。」
「どうして?」
「冬真の遺伝子を残したい葉祐さんと残したくない冬真でかなり揉めたんだ。普段そんなに我を通すタイプの人達じゃないけど、冬真の遺伝子をこの世に残すことと里中家の再建は葉祐さんの悲願だったし、冬真は冬真で体のこともあって…自分の様な人生を歩ませるのは可哀想だからって。結局、体のことは遺伝じゃ無いかもしれないし、遺伝だとしてもその子が受け継ぐとも限らない。受け継いだとしても…全力で幸せにしてみせるっていう葉祐さんの言葉が決め手になって冬真が折れたんだけど、冬真は心労が絶えなかったんだろうね。あの頃は随分と入退院を繰り返していたっけ。」
「苦しかっただろうな...可哀想に...」
「冬真の世話に追われ、初めての子育てで自分の世話に奮闘している葉祐さんを見ていて、真はずっと早く大人にならなくちゃって思ってた。そこへ来て、冬葉が生まれるまでの一連の過程を見てきたから、余計早く大人になって、冬真の支えになろうって思ったんだ。冬葉が生まれてからは、今度は自分が感じた不安を弟に与えないようにと必死だ。真はいつでも全力疾走。全力疾走の長距離ランナー。前だけを向いてひたすら走る。そのために封印したり、見ないようにしてきたことが山のようにあって、今まではそれで上手くやり過ごせたことも、今回はそれが出来ずに戸惑っている。戸惑いすぎて、心に体が着いていけなくなった。だから倒れたんだ。」
「何なんだろう?それは。」
「嫉妬...簡単に言えばヤキモチだよ。直生君。」
若先生は満面の笑顔を向け、そう言った。
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