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優しい人 #3 side S
俊介さんは家庭に恵まれていなかったと、葉祐から聞いたことがある。俊介さんはどうして結婚しなかったんだろう。そういったものに懐疑的になってしまったんだろうか…
少しだけ沈黙が訪れた。僕は居たたまれなくなって、話題を変えた。
「あっ、そうだ!再来月から文学誌で連載が始まるんだけど...」
「そうか!おめでとう。それは楽しみだな。定期講読始めないとだな。」
「えっ?別にいいよ。出版社から何冊か送られて来るから、一冊あげるよ。」
「それじゃ意味がない。そういう本は自分で買わないと。」
「そんなもんかなぁ...」
「そんなもんさ。」
「でね、その話の主人公なんだけど...実は俊介さんがモデルなんだよ。」
「おいおい…こんなおじさん主人公にして...売れなくても知らないぞ。」
「それはあくまで結果でしょ?僕はいつでも書きたいものを書いているよ。」
「......」
「とある田舎町の商店街に、店主一人で切り盛りしている時計店があってね。店主はある日突然、ふらっとこの町にやって来て、この時計店を開いたの。ただでさえ謎ばかりの人なのに、日課の散歩に出るだけで、街中がざわめき立つほどのイケメンだから、街中が彼に興味津々。更にこんな田舎町の時計店に似つかわしくないスーツ姿の客が、毎日次々と出入りするもんだから、皆の興味はどんどん加速していくの。実はそのスーツ姿の男達は、世界各国の大使館職員でさ。技術者として超一流の彼に、国宝級のお宝のメンテナンスを秘密裏に依頼しているだけのことなんだけど、このことは一切公言してはならないの。それが店主が依頼を受ける唯一の条件。公には出来ないから、噂が噂を呼んで…って、ここまでは固まってるんだけど...この後の展開の選択肢が二つあって...どっちにしようか、今、悩んでいる真っ最中。」
「そうか。」
「そうか...って、随分あっさりしてない?聞きたくないの?選択肢。」
「聞いてしまっては、つまらないだろう?」
「まあね。どっちを選ぶにしろ、キーポイントになるのが、店主が独身を貫く理由なんだ。店主が縁談や告白を断り続ける理由。これだ!って納得出来るものが全然思い浮かばなくて...う~ん...」
ソファーに座ったまま膝を抱え、僕は宙を見た。再び沈黙が訪れた。俊介さんが持っていたグラスの中の氷が解けて、カラリと自発的に音を立てた。それをきっかけに、俊介さんが口を開いた。
「昔......」
「えっ?」
「昔...恋に落ちたから...一生分の恋をしてしまったから...とか…」
グラスを見つめたまま、呟くようにそう言った。
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